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【短編】「memory」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 029

 レンは古いクルマの運転席でコイントスを繰り返していた。表、裏、表、裏、裏、表、裏、裏、裏、表、表、表、裏、表、裏。すべてのコインが彼の思う通りの面を見せた。

 15回繰り返したところで、マリが窓をノックした。隣に見たことのない少女を連れていた。

 「ずいぶん可愛いお客様だな」

 その日の二人の仕事はある企業家を誘拐することだった。

 誘拐といっても意識を失わせ猿ぐつわをし、監禁して身代金を用意させるような前時代的な作業ではなかった。ターゲットの「信用」を盗み、サルベージする作業のことを彼らは「誘拐」と呼んでいた。盗み取った「信用」を小型の外部記憶端末に保存したとしても、その仕事を終えてくるはずのミサは手ぶらのはずだ。

 「こちらのお嬢様がカルテルの重役なのか?それとも今日の仕事はご令嬢の塾の送り迎えだったかな?」

 国家の「信用」に基づいた貨幣の流通量が相対的に低下するにつれてあらゆる「信用」が直接的に価値を持ち流通していた。信用は他者による認識がつくる。その根拠になるのは身元の歴史と証明だ。一部の識者たちによる糾弾を無視し続けた先に誕生した国家の中央集権データサーバによる公的記憶証明の身元の管理はごく一部の上層階級と下層階級を明確に分けていたが国家はそれをセーフティネットと呼んだ。

 公的アイデンティティを所持しないレンには関係ない話だった。レンという名も親がつけた名ではなかった。彼らのような表の世界には属さない人間は公的信用を保持することはできないため、殺しなどの裏稼業や他人から窃盗、サルベージした疑似信用をつくり、それを転がしながら生きていた。

 後部座席に少女を乗せたマリは口早に呟いた。

 「今は何も聞かずにクルマを出してもらえると嬉しい」

 レンは疑似オートモードでクルマを出した。実際には欺瞞を施したマニュアルモードだったが、あくまでオートモードで走らなければ、私は悪いことをしています、と、サーバーに公言しているようなものだ。

 レンは適当なダイナーにクルマを停め、二人を四人席の向かいに並べて座らせた。22時を回ったダイナーにはカップルや学生など平和な日常が広がっていた。

 「どうして鯛を釣りにきたオレたちは金魚すくいの袋を提げて帰ってんだ?」

 マリは答えなかった。

 「このままおウチには帰れないぞ。」
 
 ボスに知れたらまあ、命はないだろう。比喩ではない。
 ずっと黙っていた少女が口を開いた。美しい楽器が静かに空気を震わせたようだった。

 「友だちを助けたいんです」

 「トモダチ?」

 久しぶりに聞いた言葉だった。いや、実際に生身の人間の口から発した言葉としては初めてかも知れない。トモダチという信頼関係をベースとした人間関係をレンは築いたことがなかった。その言葉はもはや文学の中にしかない言葉だと思っていた。

 めんどくさそうな話に巻き込まれたな、とレンは悟った。

 「なるほど、この子のトモダチを助けてあげる。家出でもしたのかな?」

 レンはダイナーの化け物みたいに巨大なコーヒーフロートを吸った。

 「それが新しい仕事?ボスはこのことを知っているのか?」

 マリが言った。

 「コイントスで決めたら?」
 
 なにかあるな。とレンは思った。マリはレンの能力を知っていた。レンはサーバ上の公的集合記憶に、脳から直接アクセスし、恐ろしい速さでデータマイニングを行う能力を持っていた。彼はある程度不確定要素の少ない限られた空間における短時間の一現象をほぼ予知することができた。第六感と呼ばれる生まれ持った超感覚的な才質に非合法のブレインアクセラレーション処理を施したその力で様々な仕事に手を染めて、生きてきた。

 「本当にいいのか?」

 「どうぞ」

 「じゃあ、お嬢さん、どうぞ」

 レンはコインを少女に渡して言った。
 少女はコインをトスした。コインが宙に舞う。

 「裏」
 「裏」

 二人が同時に呟いた。プラスチックのテーブル上でコインは裏を見せた。
 少女はコインをレンに渡した。レンがトスする。

 「表」
 「表」

 コインは表を見せた。8回同じことが続いた。二人がその現象を当てる確率は六万五千分の一だった。

 「もういい」

 レンは呟いた。

 「オレと同じ能力を持ったやつか」

 マリは首を振った。

 「違う」

 「じゃあ、このとてもとても運の強いお嬢様にロトでも買ってもらうのか?」

 「最後にもう一回、やってみて」

 レンはため息をついてコインをトスし、「裏」と呟いた。こんなに制限された空間条件下での予知は一桁の足し算よりも簡単だ。

 「表」

 少女は呟いた。レンは自分の身体に戦慄が走るのを感じた。えも言われぬ直感が脳裏に刺さった。それは後悔のような恐怖のような、夢の中で高所から落下した時の感覚に似ていた。

 テーブルの上で跳ねるコインがスローモーションに見えた。コインは表を見せて僅かに震えて静止した。レンがコイントスの予知を失敗したのは生まれて初めてだった。
 
 「なぜだ?」

 レンはマリに聞いた。苛つきはなかった。純粋な疑問だった。

 「あなたは負けてない」

 レンはミサが言っていることが分からなかった。ミサは続けた。

 「あなたは「表」と言っていた」

 「どういうことだ」
 
 「そのままよ。あなたはさっき「表」と言って、コインは表を向けた。あなたの予知は正しかった。」

 「何を言っているんだ?オレは「裏」と言った」

 レンはそこで気づいて少女を見た。少女は無言でレンを見つめていた。表情はなかった。

 「「集合記憶」をいじったのか?」

 マリは頷いた。レンは少女が「表」と呟いた一瞬に感じた直感の正体を知った。どこから手を入れられたのかは分からない。だが、少女は、オレの記憶を改ざんしたのだ。おそらく自分がコインをトスした瞬間から、コインが表を表すどこかの時間。自分の記憶にアクセスし、自分が「表」と呟いたという記憶を「裏」と呟いた記憶に書き換えたのだ。信じられない量の集積データに信じられない速度でアクセスし、処理を行ったことになる。そんなことが可能なのか。

 「もう一度聞く。ボスはこの状況を知ってるのか?」

 マリはそれには答えず、呟いた。

 「相談にのってもらえるかしら?」

 レンはため息をついてコーヒーフロートを勢い良く吸った。

 「この少女が私服を肥やした豚のサルベージよりも価値があることは分かった。」

 レンは少女に向かってたずねた。

 「それで、おトモダチというのは、誰なのかな?」

 「この「世界」です」

 レンは呆気にとられて、マリを見た。

 「またオレは記憶をいじられたのか?」

 マリは首を横に振った。少女は静かに同じトーンで続けた。

 「おそらく今日の深夜、この国のサーバーに記憶されているアイデンティティがすべて消失します」

 レンは耳を疑った。何を言っているんだ?少女の言葉に反応することができず、手元のコーヒーフロートを吸った。だが化け物のようなコーヒーフロートはいつの間にか空になっており、ズズズ、という音だけが賑やかなダイナーの喧噪にかき消された。

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