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【短編】「counter」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 043

 カズジは自分が害化していることに気づいた。

 その日、家の仕事部屋の空気正常機のランプがいつになくずっと橙色に点灯し続けていて、それは普段しばらくすると緑色になり噴気を弱めるのだが、いっこうにその気配がないのでまさかと思い、鏡を覗いたところ、そこに映っている自分に害化の兆候が認められたのだ。

 鏡に映る顔の輪郭の内側に目立った変化はなかった。三十路を超えた頃から細かい染みや無精髭が気になりだしたがもともと見栄えの良い顔ではなかったし外見に過度な期待を持ったこともなかった。その意味では顔の造形に別段の問題はないといえた。害化の兆候は顔の外側に現れていた。全体から滲み出るような、あるいは醸し出されるような、禍々しい雰囲気。目には見えないオーラのようなもの。そんなニワカに重々しい空気感を纏った像が害化を伝えていた。家族も寝静まった深夜二時の出来事だった。

 まずはじめに頭を過ったのは、自分で気づいてよかった、ということだった。害化は加齢とともにいつの間にか現れるため、本人の自覚のないまま周囲の害と成り続けることが多い。周りの人間たちも、あなた害になっていますよ、とは言いづらいので本人と周囲の間に不幸な関係が築かれてしまう。その点カズジの場合は害化の自覚があるため周囲に対してなるべく害にならないよう努力する余地が残されていた。

 次に芽生えたのは、自分もそんな歳になったのか、という感慨深い思いだった。害化にはいくつかの発生要因が存在するが、学会の公開しているデータによれば統計上最も多い要因は加齢による社会とのギャップである。人は歳をとってゆくと人生経験が豊富になり社会の中で自信が芽生えてゆく傾向にある。社会的地位の向上がその自信をさらに大きくする。肩書きや役職、収入や知名度の上昇など、本人の人格に影響を及ぼす外的因子が潜在的に自尊心を増長させる。それが当人の器量を越えた時に害化は発生すると考えられている。つまり若い頃に発生することは稀である。

 カズジは寝静まった住宅街の屋根が水平に並ぶ窓の外を静かに見つめた。ここ最近の自らの言動を思い起こしてみる。カズジの仕事は企業のウェブやデジタルプロモーションをデザインし管理することだった。十五年前に始めた頃はまだ未開拓の領域が多く挑戦と失敗を繰り返す毎日だった。仕事がもらえるだけでありがたい気持ちになり全力で取り組んだ。いま、全力で取り組んでいないかといえばそうではない。だが起業から十五年が経ち、五人で始めた会社も百人を超える規模まで成長した。自分より二十歳も若いスタッフが大勢、現場を切り盛りしている。すべての社員の名前を把握できているか自信がない。何かを得る決断よりも何かを失うことへの恐れを優先的に考えていることにたびたび気づく。自らの判断が率直に手段に反映されないもどかしさは走っても走っても前に進まず苦しい思いをする悪夢に似ていた。一年を重ねるごとに自分の手で触れるものは減り、その代わり他人が作り出す自分のイメージが膨らんでいった。イメージは陽炎のようにゆらゆらと揺れカズジの虚像を肥大化させていった。自分が具体的に手で触れるものは指の間からすり抜けて消え、逆に自身の言葉だけが必要以上の力を持った。カズジはそんなことを一度も望んだことはなかった。ただ目の前にあるものに対してひとつひとつ取り組み結果を出してきただけだった。十五年という時の潮流がゆっくりと筏の座標を知らぬ間に動かしていた。どこにでもある話だ。

 自分は害化している。カズジは清掃工場の煙突の先端でゆっくりと点滅する赤い航空障害灯を眺めた。1、2、3。

 明日、起きたら妻に、会社を辞めることを話そう。驚くだろうか。煙草を辞めることを話したときのように、努めて自然に話そう。小学生の息子と娘の進路に影響が出ないように計画を練ろう。それなりの貯蓄もある。すぐに新たな計画を考えよう。今から考えよう。ドクンドクン、と心拍が高鳴る。死に向かってオートマチック運転に移行していた細胞システムがマニュアル運転に変わった音がした。血管が一回り太くなったように感じた。インテリジェントな走りが気に入っていた外国車をすぐに売ろう。そして何をしよう。自分には何ができるだろう。自分の手でなにを触れるだろう。何を触ろうか。

 仕事部屋の椅子の上で静かに目を閉じた。久しぶりに眠れない気がした。空気正常機はいつしか緑色に点灯を変えていたが、その変化にカズジが気づくことはなかった。

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