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【短編】「乾燥人」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 053

 ある朝起きたら、リビングに乾燥人がいた。

 乾燥人は床に座っていた。どこから入って来たのか聞いたら、分からない、と答えた。だが、リビングの窓が10cmばかり開いていた。そこから入って来たに違いなかった。昨夜、うっかり閉め忘れたのだろう。

 乾燥人は猫のような熊のような出で立ちだったが皮膚の表面はつるつるした素材でできていた。立てば背丈は150cmほどになるだろうか。口の中が乾燥して目を覚まし、水を飲みに来た家主の私に一瞥もくれず、ただ座っていた。二十歳を過ぎた一人暮らしの女性宅にあがりこんでいるという自覚はまずないようだった。

 一応、客人であるわけなので、私は乾燥人にお茶を出すことにした。ポットで湯を沸かし、急須で焙じ茶を淹れた。ダイニングテーブルにお座りになったらどうですか?と問うたが、ここでいい、と返事をするだけで動かなかったので、私は湯飲みを床に置いた。

 私は口の中がからからだったので、タンクからミネラルウォーターをコップに注ぎ飲み干した。ゴビ砂漠のように渇いた舌と喉に水が染み込んだ。歯茎の痛みもすこし落ち着いた。

 春先の太陽はまだ地平線から顔を出していないようだった。薄い雲が空にかかっていた。淡いブルーを纏った曇天の空だった。朝食をつくるのにはまだ早い時間だったので私はしばらくダイニングテーブルに座り、まるまった乾燥人の背中をぼんやりと見ていた。

 乾燥人はあいかわらず何も言わなかった。私が出した焙じ茶には手をつけていなかったが、湯飲みはいつの間にか空になっていた。乾燥したのだろう。

 「人の家にはよく上がり込むんですか?」

 私は言い方がさすがに不躾だったかなと思った。

 「いえ、そうとも限りません」

 と、乾燥人は答えた。

 「ではなぜうちへ?4階まで上がるのはたいへんだったでしょう」

 「いえ、造作もありません。ひょんなことから辻褄があっただけでしょう」

 私は、そういうものか、と妙に腑に落ちて、それ以上、乾燥人に事情を聞くのをやめた。何かが噛み合ったり、何かの拍子に風が吹いたりすることは、よくあることなのだ。そして質問を続けるにはすこしばかり、こめかみがうっすらと痛かった。

 昨日の夜は泣きはらしたのだ、と思い出した。夜だけではない、暇があれば一日中泣いていた。そのために会社を休んだ。体調不良と伝えたが心調不良という言葉があればその方が相応しかった。

 夜明け前のリビングに音はなかったが、私の耳鳴りだけが鳴っていた。どおぉん、という空洞が反響するような耳鳴りだった。本人の意思とは関係のないところで副交感神経系と交感神経系が優位を入れ替え、身体の状態をなんとか保とうとしていた。

 何も考える気にならなかった。なぜ目が覚めるのか。なぜ空腹になるのか。なぜ口の中が渇くのか。

 心臓の鼓動は私の要求によるものではなく、ただただ勝手に一定のリズムを打ち鳴らす。

 「お茶のお代わりは?」

 私は、乾燥人に聞いた。

 「いえ、お気になさらず」

 私たちはそれ以上、口をきかなかった。不快ではなかった。そもそも私と乾燥人の間にはお互いに話すことなどないのだ。

 私は今日も会社を休むことにした。空に二羽の鳥が黒いシルエットを見せて羽ばたいた。新しい24時間が始まったようだった。空虚な24時間だった。
 
 冷蔵庫からプロセスチーズを取り出し、フィルムを剥いてかじった。昨日の残りのコーヒーをコーヒーポットからカップに注いで、冷たいまま飲んだ。乾燥人は私の行動には興味がないようだった。あいかわらず部屋の一点を見つめて座っていた。

 私は目を閉じて、唇に染みたコーヒーを舌でゆっくりと舐めた。ぱりぱりと乾いていた唇はいくぶんか潤ったようだったがまだ薄皮の表面は固かった。可能であれば夜はこのまま明けないでもらいたかった。だがそういうわけにもいかない。電車は始発から走るべきだし、郵便は各所に配達されるべきだし、資本はあるべきところへ流れるべきだし、人は人を愛するべきなのだ。眠りから覚めるとは、そういうことだ。だが、それらすべてが今の私には不必要に思えた。

 自律神経系の防御作用を突破した圧が私にのしかかってきた。重く冷たいマスだった。世界中の人々の取り持つバランスの偏りがこの部屋を圧迫しているかのように感じた。被害妄想であることは承知していた。涙は流れなかった。それが乾燥人の作用によるものなのかは、分からなかった。それを聞いても、答えは返ってこないだろう。私はただ黙って、乾燥人の丸い背中のシルエットを視線の先でなぞり、夜が明けるのを待っていた。

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