【短編】「彼女」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 013
別れた彼女に電話をするのが、未練がましいことだとは重重分かっていたけれど、無意識に彼女宛のスマホのアイコンを僕はタップしていた。
もう一度やり直せないかな。その言葉が、彼女まで伝わるとは思っていなかったが、どうしても伝えたくて、気づいたら指が勝手に動いていた。
プルルルル。闇の中で、電子音が繰り返される。9、10、11、心の中で電子音の数を数える。心拍は意外と落ち着いている。20まで数えたとき、音声に切り替わった。
「ただ今電話に出ることができません。ピーッという発信音の後に、ご用件をお話ください。終わりましたらシャープを押してください」
しばしの間の後、ピーという冷たい音が僕の右耳に刺さる。
僕は、無言でその無音の暗闇の中に立ち尽くす。
どれくらい時間がたっただろう。時間が止まったような無音。
言葉を出すことができない。ただ、声帯を震わせる。これまで毎日、何度も行ってきた行為が、どうしてもできない。息苦しくなり、動悸が激しくなる。しかたない、電話を切ろう、そう思った瞬間だった。
暗闇の中から声がした。
「何か、伝えたいことがおありですか?」
彼女が電話に出た。いや、違う。彼女の声ではない。
「伝えたいことがおありなら、言葉にしないと伝わりませんよ」
静かに、まったく温度を感じさせずに語るその声の主は、「ただ今電話に出ることができません」とこちらに伝えた女性だった。
「あ、そうですよね」
僕は間の抜けた声で、反応するのが精一杯だった。
「そうですよ。せっかく、伝えたいというお気持ちがお有りなのだから、お伝えになってください」
「ありがとうございます」
相変わらず僕は素っ頓狂な声で答えることしかできない。
また、無音の闇が生まれる。
闇の奥から女性が囁く。そこに感情はない。
「本当にここだけ。ここだけの話ですが、わたしは気持ちというモノをお持ちの、あなたがた人間が羨ましいのよ。私は、ほら、言葉だけの存在だから」
やがて僕の右耳の先は、無音の暗闇に戻ってしまった。
それ以来、彼女の声が僕に届くことはなかった。
僕は、深呼吸をひとつし、言葉を紡ぎ出した。
「あの…」
"彼女"がいた、深い暗闇に向かって、精一杯に。
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