【短編】「乱視」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 019
4年間同棲をしていた彼女が男をつくって出て行った。
僕は彼女のまつ毛の長い二重の目や、綺麗に尖った鼻、赤ん坊のようにふっくらとした耳たぶ、現代彫刻のように美しい鎖骨、どんな映画よりも一日中鑑賞していられる美しい脚や、握るといつも温かい子どものような手、そのすべてが好きだった。そんな女性に会ったのは初めてだった。彼女は僕を好きだと言ってくれたし、月並みだが僕は彼女と人生を添い遂げる気でいた。
だが彼女はある日、とつぜんいなくなった。好きな男ができた、という言葉だけを残して。
僕は彼女の何を見ていたのだろう。なにも分からなくなり眼科に行くことにした。
渋谷の駅を降りて眼科の看板を探しながら歩くと、雑居ビルの6階に日本人によくある名字の付いた眼科を見つけた。簡素な受付で保険証を提示し、茶髪の看護婦の言われた通りに診察カードを作り待合室で待った。5分ほど待ったのち、バレーボール選手のように身長の高い看護婦に呼ばれ、薄暗い診察室に入ると、30歳くらいの美しい女医がカルテに目を通し無表情で言った。
「そちらにかけて、まっすぐこちらを覗いてください。」
僕は言われるがままに顕微鏡と双眼鏡を足したような機具を覗くと、女医は反対側から強い光を僕の目に投射し、業務的に呟いた。
「乱視が入ってますね。」
「乱視ですか?」
「はい、強めの」
女医はカルテにボールペンを走らせる。
「それは、僕の目は乱れてる、という意味ですか?」
「はい。狂ってる、ともいいます」
「狂ってる、私の目が」
「はい。あまり大きな声では言えませんが、狂ってます」
「そうですか」
「かなりよくない状態です。ほぼ何も見えていない」
「え。見えてますけど」
「それは見えていないんです。残念ながら」
「でも今、見えているのは」
女医は僕の言葉を遮り、早口で質問をする。
「これ、どう見えますか?」
女医は自分の顔面を指差した。
「これ、とは?」
「これです。私の顔です」
美人の女医に真正面からそう聞かれ、すこし躊躇したが、ここは合コン会場の飲み屋ではない。診察である。客観的に見えたものを答えた。
「えっと、綺麗だと思います」
「どう見えますか?」
「全体的に整っていて、綺麗な目ですし、鼻も唇も、こう言ってはなんですが、正直、女性的な魅力を感じます。」
女医は僕の話した内容をさらさらとカルテにかき込みながら言った。
「年齢とともに眼球に圧力がかかるとどうしても像が歪んできます。それは仕方のないことです。強制するコンタクトレンズを処方しますので、そちらを使用してみてください。これまでに乱視矯正用のコンタクトレンズを使用したことは?」
「ありません」
「度を合わせますのでこちらのメガネをかけてみてください。」
僕は手渡されたメガネをかけた。フレームに何枚かのレンズを付け変えることで度数を合わせる仕組みらしかった。長身の看護婦が、僕の度数を測るためにレンズを数枚用意している。
「私の顔をみてください」
僕は女医の顔を見つめた。長身の看護婦がフレームにレンズを入れる。カチャリ。
「どうですか?」
そのレンズ越しに見た女医は先ほどよりも何かを失ったように感じた。なんだ?何を失ったんだ?顔の形は何も変わっていない。
「どうですか、と、言われても。」
「これだと、どうですか?」
長身の看護婦がさらにレンズを左右に一枚ずつ挿入する。カチャリ。メガネはほんの少し重みを増し、冷たいフレームが僕の鼻にのしかかる。カチャリ。
目の前にいる女医からは、この診察室に入った時に感じた惹きつけられるような魅力は微塵も感じられず、彼女はまるで自分の家族、姉か、母親のような存在として僕の目の前に座っていた。
「これで、おそらく見えていると思いますが、どうですか?」
「これが、見えている、ということですか?」
「はい、乱視が矯正されています。両眼とも、今、1.5、見えている状態です。」
「そうですか。」
「はい。この度数で3ヶ月分のコンタクトレンズをお出ししますので、また3ヶ月後に来てください」
「はい」
僕は、測定用のメガネを外し、長身の看護婦に渡して診察室の扉を開けた。
「どうも、ありがとうございました」
振り返り、女医に挨拶をした。女医は少し微笑み、僕に囁いた。
「おだいじに」
その美しい目に射抜かれ、僕の心拍は激しく高鳴り、電気が身体中を駆け抜けた。
知らなかった。僕は、何も見えていなかったのだ。
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