見出し画像

【短編】「時代昇降機械」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 076

 ファッションや流行が時代によって違うのは当たり前で、例えば1960年代にタイムスリップしたとすれば、まわりの服装やメイクやかかっている音楽などはその時代特有の価値観を反映したものと決まっている。

 また、1990年代にタイムスリップすれば、その時代特有の価値観が街角のテレビジョンに映っているだろうし、1920年代にはその時代の髪型を頭にのせた女性たちが歩いている。

 それが時代だ。

 なぜそんなことを考えたかといえば、私の乗っているエレベーターが、ここはデパートで、一階ごとに停止し、その度に人々が乗り降りしているのだが、先ほどからどうやら一階ごとに乗ってくる人や降りてゆく人間たちが異なる時代ごとのファッションを反映した人々で、今しがた9階で降りた女性はブリジットバルドーのようなカールヘアにカラフルなプラスチックのサングラスをかけ、ワイングラスの柄ほどもあるヒールのエナメルブーツをカツンカツンと響かせ尻を振りながら出ていったかと思えば、その後8階で乗ってきた男性はパンチパーマ、というのだろうか、を、額の上にカールさせ、喧嘩上等、と太い明朝体を背中に縫い付けたピンク色のロングコートのような裾の長い法被を纏い、ジャラリと腰から鎖を垂らした出で立ちでエレベーターの中央にだるそうに立っている、というような状況で、一階一階が異なる時代を積み上げている不思議なミルフィーユのような層を縦断していることに気づいたからである。

 私は間抜けにも、時代というものは、その中にいる時分には、女の口紅の色が濃いのか薄いのか、はたまた眉毛が濃いのか薄いのか、などはとんと気づかないものなのだな、と妙に納得するという居心地の良い疎外感に包まれていた。

 話は戻るが、もしもタイムマシンというものが存在し、同じ場所で周囲の風景が変わってゆけば、このエレベーターに乗っているような感覚になるのであろう。すなわち、周りの髪の毛の造形や着ている服の形や生地が次々と変化し、その度に、その時代特有の匂いを感じ、その時ごとに違和感に気づくのだ。

 私は地下2階に到着したエレベーターを降り、和菓子売り場を歩いた。周囲は大正モダンの空気に包まれモダンボーイやモダンガールたちが談笑し闊歩している。モダニズムの始まりは煙っぽい匂いに満ちていた。油を原始的に燃焼させる際に発する臭気である。それがエネルギーを感じさせる。曲がり角で飴屋が金太郎飴を切っているので覗いた。

 飴屋は手慣れた手つきで飴をトントントンと切ってゆく。

 そう、時代とは金太郎飴のようなものである。どの時代で切っても、その時代に現れる金太郎は輝いている。だが結局はどの時代も金太郎なのだ。帝政ローマ時代には帝政ローマ時代の流行という名の金太郎がおり、大航海時代には大航海時代の流行という名の金太郎がいた。ただそれだけの話だ。

 私はぼんやりとそんなことを考えながら飴屋の手元を眺めた。

 だが不思議なことに金太郎飴が切られてゆくと、その断面は、ある時は金太郎なのだが、ある時は、桃太郎、ある時は、かぐや姫、またある時は白雪姫、という風に、現れる顔が全く変わるではないか。

 私は汗が吹き出し仰天して飴屋に聞いた。これはどんな仕組みなのだ?

 飴屋はちらりと私を一瞥し答えた。

 飴っつっても、一様じゃありません。あるところで切ればそれはある飴でまたあるところで切ればそれはまたある飴でしょうよ。そこから先はご主人の解釈にお任せします。

 それ以降飴屋は黙ったきりだった。私は、飴屋に先ほどまで考えていた時代の話をしようかと思ったがやめた。飴屋は飴屋だ。時代屋ではない。飴と時代は違うのだ。

 私は吹き出した汗をハンケチで拭い、その場を立ち去った。

 大正モダンの空気を孕んだデパートの地下二階にベージュのトレンチコートを纏った女性がシガレットを咥え人混みに消えた。私は視界の隅で消えたその残像が失った妻なのではないかと一瞬頭をよぎったが、それ以上は考えないことにした。仮にそれが妻だったとしても彼女の記憶は過去の中に焼きついているべきでそれがデパートの地下であれエレベーターの中であれ、忽然と現れてもらっては困るのだ。

 私にとって妻は妻であり、失った女は失った女なのである。時代は流れていってもらわねば堪らない。私はハンカチを仕舞い、今来た時代に帰宅するべくエレベーターのボタンを押した。指先の汗がじっとりと金属のボタンに付着した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?