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【短編】「秘儀」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 006

 ヨウは息を止めるのが好きな子どもだった。

 息を止めると、死が近づいてきた。
 
 物心がついてから、密かに息を止めることは彼にとって、いつしか自然な儀式となっていた。

 もちろん、あっという間に耐えきれなくなり、息を吐き出し、空気を吸い込む。実際にはその足音すら聞いたことはなかったが、その延長線上に、確実に死というものを感じることができた。想像することができた、といったほうが正しいかもしれない。

 もちろん、秘儀のことは大人に話したことはなかった。怒られることが分かっていたし、何かを理解してもらいたいという気持ちが沸いたこともなかった。

 息を止めて、死がゆっくりと遥か彼方から近づいている時、まるで時間が止まっているかのような気がした。

 宇宙の中で、自分だけが万物を支配する理から逸脱しているかのような、真空の時間。

 ヨウの親はよく喧嘩をした。母は取り乱し、父は暴力をふるった。こういう言い方をするのは変かもしれないが、幼いヨウの目に映る彼らは、自分よりも幼いように見えた。

 そんなとき、いつも息を止めた。時間が止まった。世界と断絶し、タイマーのスイッチが入るように、死がゆっくりと歩み寄ってきた。遥か彼方から。

 そんなことを思い出していた。

 大学生になったヨウはガールフレンドの暗い部屋のベッドで天井を見ていた。彼女の静かな寝息と時計の秒針、すぐそばにある冷蔵庫の低いモーター音だけが聞こえた。どうしようもなく無力だった世界から脱出し、たどり着いた世界。安心して漂流できる海。

 ヨウは久しぶりに息を止めた。時間が止まった。死が近づいてきた。あの頃と同じように。タイマーが作動した。自分は、このあと、また息を吸うだろうか。吸うだろう。すべてが止まった真空から戻り、安心して漂流を続けるために。

 その僅か先の時まで、遥か遠くに感じる死の足音を、ヨウはじっと待っていた。

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