二羽の鳥

【短編】「晦冥」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 049

 トージの目はいつも赤かった。それは彼が兎だからではない。彼は10歳の少年だった。

 トージは闇が恐かった。ありとあらゆる闇を嫌ったがもっとも戦慄するのは瞼の裏に映る闇だった。湯の出の悪い錆びた配管から鉄の匂いのするシャワーを浴びるときはなるべく目を閉じないようにした。石鹸を使える日は水曜日と決まっていたが使ったことはなかった。石鹸の泡が顔にしたたる間じゅう目を閉じることを嫌った。

 瞼の裏に映る闇は自分をこの世界に運んできた通路のように見えた。闇の中には光の残像がちらついた。それは黄や緑や赤の燐光だった。ゆっくりとずれるように降りてゆく塊もあった。この暗黒のトンネルを抜けると自分がこの世界に来る前にいた場所にたどり着くような気がした。この闇の奥行きをずっと前から知っていた。生まれるずっと前から。

 いつしかなるべく目を閉じないように過ごすことを覚えた。彼の目はいつも赤かった。

 太陽は毎日フェンスの外側に広がる砂漠に沈み、闇を運んだ。人工の灯りは見えなかった。時おり上空を音速機が飛んだがエンジン音が唸る頃には機影は消えていた。

 ダイニジセイチョウキ、と施設長室からくすねてきた林檎を齧りながらエルマが言った。

 その言葉は古い大戦で機銃の穴だらけになった単葉機を思わせたがトージは黙っていた。 

 「心も身体も大人になる時期ってこと」

 どうしてそんな時期があるのかな、とトージは言った。

 「知らない。きっと神様が複雑なものに対峙する猶予を与えてくれたんでしょう」

 そう言われれば確かにシンプルなタンクトップのエルマの胸が僅かに膨らんでいるような気がした。

 「生まれたときから大人でいいのに」

 トージはむき出しになったボイラー管の上に座るエルマに向かって言った。幼い頃からこの施設にずっと一緒にいる二人が当直から盗んだ場所だった。

 「目を閉じてみて」

 エルマは管から飛び降りて言った。白い砂埃が彼女のサンダルの周りに舞った。

 トージは断った。自分の目が赤い理由をエルマが知らないはずはなかった。 

 「いいから」

 エルマは横に座りトージの瞼を掌で閉ざした。

 闇が襲ってきた。無限に広がり意識を吸い込んだ。

 おもむろに唇に柔らかい体温を感じた。触れたか触れていないかよく分からない感覚だった。

 トージは目を開けた。悪戯に笑うエルマの顔があった。

 神様はゆっくりでいいって言ってるのよ、とエルマは囁いた。

 闇から生まれた小鳥は無限の天蓋に瞬きを見つけて夜空を渡る。闇に帰す今際の際まで。

 荒れた砂地に座る小さな少年と少女を巨大な闇が包み、何かを二人に運んだ。非常に重く鈍く音のない流体のように感じた。巨大な怪物の寝息のようだった。それは確かにそこに存在していた。だがそれが何なのかはトージにはまだ分からなかった。

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