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【短編】「禁吸血」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 064

 歯を削ってゆきます、と言われたので、はい、と答えた。

 美人の歯科医師が無表情でドリルを回した。高速回転する掘削装置が歯に当たって脳を揺らす。麻酔をしているため口内の状況は分からないがかなり大胆に削られているようだ。

 私は口を限界まで開けたまま天井の格子模様を眺めていた。唾液が口の端から垂れているが止めることはできない。

 医師の首筋が私の視界に入った。白く華奢な筋がうなじから肩に向かって伸びている。ブロンズの髪は帽子の中に纏められている。照明が透明な産毛を滲ませた。

 私は胸の奥から込み上げてくる衝動を抑えた。彼女の首筋から目をそらし天井の格子模様の交点の数を数えることにした。

 一、二、三、四。

 近ごろは吸う場所も吸わせてくれる女性もめっきり減ってしまった。仕方がない。そもそも「若い女性の生き血」などというカテゴライズ自体がさまざまなイシューをかかえた言い方なのだ。今の時代において。

 私はジョギングを始めるつもりでいた。自分を変えるためだ。いろいろなウェブサイトに目を通し、鉄分を多く含む食材のチェックは済ませた。

 そして自らのアイデンティティである歯を削ることにした。

 それが私の禁吸血への決意だった。

 終わりましたよ、と医師が額の汗を拭きながら言った。私は診察台の脇でうがいをした。鮮血の混ざった深紅の唾液が排水溝に流れていった。

 新たな人生の始まりである。私は丸くなった歯の先を舌で触ってみた。違和感しかなかったがこれも新しい時代への適応と腹をくくり、医師に礼を言った。医師の美しい首筋に目がいった。彼女もその視線に気づいていた。だがその首筋はもはや私には関係のない首筋だった。私の歯は丸くなった。

 私は会計を済ますために診察台から降り、待合室のソファへ座った。黒く長いマントが邪魔だった。もう必要ないものだ、と気づき、私はそれを脱いだ。

 小さな窓から吹き込む風が心地よかった。夏が近づいていた。歯医者を出た私は八百屋でひとつの真っ赤な林檎を買い、丸くなった歯でそれを齧った。


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