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【短編】「青嵐」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 042

 鰯の由季子は海流に身を任せ大洋を泳いでいた。

 親潮は彼女たちの生を肯定するかのように一方向に向かってうねりを形成している。由季子は自身の流線型を水圧の赴くままに従わせ疾走する。周囲の大集団も一糸乱れず由季子と同じように紺碧の空間を進んでゆく。すぐ横を進む里美が由季子に接近してきた。由季子は彼女たちの年頃によくある若干の照れを含んだ笑みを里美に返す。今は見えないが集団の最上部では光太郎や健吾たちのありあまるエネルギーが発散場所を先へ先へと求めているのが分かる。すぐ下では涼子や利香たちのお喋りな集団がけらけらと笑っているので彼女たちの身体に反射する太陽光がチラチラと眩しい。由季子はこんな時いつも自分が自分であると同時に自分が自分だけではないような感覚を覚えた。私をどこかへ向かわせる海洋を母と感じる。彼女たちは一つの巨大な生命体と化していた。

 由季子が超常体験に出くわしたのはその恍惚感を覚えた直後だった。

 海流の変化は唐突に彼女の身体を上昇させた。それ自体は何度も経験したことがあるような上昇海流で隣を泳いでいた里美と離れてしまったものの流れに身を任せていればやがて集団の中での彼女の位置が変わる程度で済むはずだった。自分のしっくりくる位置にまた戻ればいい。そう思いながら腹部に感じる圧力に逆らわず集団の中での位置を上に上に移動させてゆく。久しぶりに顔を合わせた義男叔父さんが元気かいと目配せをくれた。由季子は上昇海流に身を任せながらええおかげさまでと海流のあしらいを人生の先輩に見せながら余裕で浮上してゆく。水温は次第に温かくなり自分が集団のかなり上部まで到達したことを理解する。だが自身を上へ押し上げる推進力は減退しない。由季子はそろそろ位置を定めようと胸びれを翼のように水平に使い抵抗を作った。だが海流は彼女の身体をさらに上昇させる。なかなか海流の力は落ちない。由季子は光太郎と健吾が夢中で競い合っているのを下に見た。気づいた時には集団の最上部にいたのだ。焦りが彼女を襲った。だが自身の身体は意識と裏腹にどんどん集団から離れてゆく。由季子は必死で戻ろうと身体をくねらせたがどうしても海流に逆らえない。つい先刻まで自分が一部と化していた大きな生命体は煌めきのバトンを先頭から後部に滑らかに渡しながら悠々と泳いでゆく。その目線は上に向くことはない。由季子は自分が居てはならない場所にいることを理解していた。だがどうすることもできない。経験したことのない心拍数で脈打つ心臓とは別に自分が一部となっていた集団の美しさに一瞬見とれた。今ならまだ戻れるかもしれない。だが由季子はそれが叶わないことを本能的に察知していた。この海流は私を元いた場所には戻さない。その予想通り海流は由季子を上昇させてゆく。眼下の集団は距離ができるほど紺の濁りが細部をぼかし太陽光を反射する白銀の部分とのコントラストを強めた。由季子の背中は感じたことのない熱さを覚えた。それが太陽の熱量であることはなんとなく分かった。周囲の海水はうだるような熱さになり密度が薄く感じた。経験したことのない海だった。自分が生きていたわずか数十メートルの上部にこんな世界があったことを由季子は知らなかった。感じたことのないほど水圧が弱くなり吐き気を覚えた。その時ついに海流が彼女を押すのを止めた。由季子は安堵したが逆にどうしてよいのかも分からなかった。流線型は惰性でまだ彼女を斜め上に推進させる。このままこの不快な状態にはいられないと思い彼女は尾びれに目一杯の力を込めて水を蹴った。

 その時だった。彼女の身体は海水面を突破しかつて経験したことのない未知の空間に飛び出した。

 彼女の目に飛び込んできたもの。それはこれまで見たことのない青だった。生まれてからずっと見ていた空間の碧とは異なる淡い青だった。その青はどこまでも無限に広がるように空間を満たしていた。見渡す限りの青には美しい白がところどころに紛れていて澄み渡るような開放感を彼女に与えた。見たことのない青と彼女の飛び出した碧の継ぎ目もまた途方もない距離まで広がっており遠くの線はぼんやりと滲んでいる。由季子は必死に尾びれを動かし続けていたがいくら蹴ってもそこに抵抗は生まれなかった。彼女の身体は上昇した。だがある地点まで到達すると下からかかる力がまったく作用しなくなった。時間が止まったかのようだった。その時彼女の目に飛び込んできたのは漆黒の岩だった。巨大な岩が彼女のいた碧い面から突き出し初めて目にした青い空間に向かって垂直に立ち上がっている。その岩は空間の中に明らかな異物としてそそり立っていた。神様が忘れ物をしたかのようにそこに刺さっているようにも見えたしあるいは神様が静的な抽象画に描き足した落書きのようにも見えた。音はなかった。その岩を含んだ風景は永遠の孤独を表現しているように見えた。時にしてみれば一瞬であったが岩は彼女に永久の語りを与えた。重力が彼女を元いた碧の海面に着水させ彼女のエラに酸素が戻った。重たい海水が彼女の身を包み水圧が彼女の輪郭を支えた。戻った紺碧の空間はついわずか先刻までいた時と何も変わらなかった。尾びれと胸びれを使ってけだるい熱さの海水域から離脱し馴染みのある水深まで潜った。やっと平静を取り戻したがそこには集団の姿はなかった。これだけの時間離されたらもう戻ることはできないことは分かっていた。不思議なことに悲しみは感じなかった。由季子は先に見た岩の姿を思った。大洋にただひとり忽然とそそり立つ巨大な岩。あの風景はなんだったのだろう。

 由季子の心の中にあの岩だけが残っていた。そこに集団生命体としての恍惚感を感じていた自分はもはやいなかった。大海原に孤立する岩が心に刻み付いていた。この風景を誰かに伝えることはもはやないだろう。

 虚脱感とも寂寥感ともつかない空虚な感情に胸をうがたれた由季子は雄大な海流の中をただひとり泳いでいった。

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