【短編】「膜」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 004
世界との間に一枚の膜が張られている。
透明で限りなく薄い。
子どもの頃に膨らましたチューインガムのような。触ると割れてしまいそうなほど薄い膜。
だが、破れることはない。
冬子は教室の片隅で机に俯せ、人差し指でそっとその表面を触る。
古文は現代の規律空間において高度な催眠作用を生む。
微睡みの中、膜の弾力を確かめる。押せば簡単に延びる。どんなに尖ったもので刺しても割れない。
膜の存在に気づいたのはいつからだろうか。
友人と笑っていても、文化祭の出し物を考えていても、男子から告白をされても、言葉の間に、体温の間に、空気の間に、膜があった。
冬子はずっと人間を見ていた。世界の外側から、ずっと。
修学旅行で乗った新幹線の車窓を流れる風景は、そのまま冬子の景色だった。そこには人間たちが暮らしていた。だが、そこに冬子はいなかった。冬子はいつも新幹線の窓の中にいた。厚さ1センチメートルの二酸化ケイ素が彼女の世界だった。
いつか冬子は母に膜の話をしたことがあった。母は、冬子の年頃になると、そういった不安定な状態になることもあるのよ、とやさしく言った。母はいつも優しかったが、その夜、冬子は泣いた。
古文の教師は、カ行変格活用について板書をしていた。こ、き、くる、くる、くれ、こよ。
冬子は右手に握ったシャープペンシルを振り上げ、思い切り膜をついた。
膜は割れなかった。
隣の席で頬杖をついていた野球部の甲斐が一瞬びくっと反応し、見てはいけないものを見てしまったという表情で、折り目のついていない教科書に目を落とした。それだけだった。
教室の窓の外を眺めた。鱗雲が旧校舎と窓枠のつくるロシア構成主義のような造形のフレーム一杯に広がっていた。
冬子はしばらく鱗雲を眺めていた。膜の向こうの鱗雲を。
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