見出し画像

【短編】「左手」_Simplicity of the world, Complexity of the life. 016

 比較的よくある話だと思うのだが、左手が自分のものではなくなってしまった。

 私にとっては、たびたびあることだ。みなさんはどうだろうか。

 昨日、得意先で簡単な打ち合わせを終えたのち、冬の気配を感じる夕暮れのオフィス街に出たところで、今回のそれはやって来た。

 いつものごとくまず左手に軽いしびれが来た。私は右手で確かめるように左手の表面を触る。

 じわりと膜のように絡んだしびれは、駅まで歩いているうちに、やがて左手全体を覆い、夜には、私の手は、私のものではなくなり、帰宅した時には、完全に手首から先の感覚はなくなっていた。

 だが、左手は動かないわけではない。動くのだが、自分が動かしている感覚がないのだ。

 包丁を使う時にトマトを押さえていても、PCのキーボードを打っていても、ペットボトルのお茶を飲んでも、左手は私のものではないので、恐縮と感謝の念が芽生える。

 悪いね。どうも、ありがとう。

 左手に持ったポットで右手のカップにコーヒーを注ぐと、そんな気持ちになる。

 左手が淹れてくれたコーヒーは、とても美味しく、体を温めてくれた。

 自分の左手に、他人行儀になる。そんなことが、たまにある。

 みなさんにも、そんな経験があると思うのだが。どうだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?