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劇団時代の話その4「エチュード」

脚本家になりたかった私は、学生劇団に入ったのだが、十人弱しかいない劇団で私は「一年は役者になる決まり!」と役者にさせられた。


そこで知ったエチュードという作劇方法。即興で役を演じ、会話をし、物語を作り上げる。
その方法を知った私は「これだ!」と心躍らせた。
小学生の頃は漫画家になりたかった。だけど、作品にするまでの膨大な労力と時間を知って、即、断念した。そんなに大変な事できない、ムリ、って。

そう、意志薄弱なの、私。

アイデアは頭の中に沢山ある。だけど、それを文章にする力がまだなかったし、努力もしたくなかった(ダメじゃん!)。
だけどエチュードなら、喋れば即、物語になり、作品にすることができるのだ。早い! 楽! 最高! 私は頭に浮かんだ物語を、勢いに任せてセリフにした。

「やだもう! それってトレンディ!」
言葉が古くて申し訳ないが、平成元年の事である、ご容赦ください。

私はこの方法で執筆欲を満たした。一日の稽古で五本、十本の物語を演じ、紡ぎ出した。そのセリフと物語を、誰もノートに執っていなかったから、口から出ては消えていく運命だったけど、次から次に口から言葉が溢れるので、もったいないなんて思わなかった。私は思うがままにセリフを言って演じる事に没頭した。

だが、物語は思い通りには進まない。
なぜなら、他の役者が勝手に喋るからである。
あたりまえだ、脚本がない即興演劇なのだから、むこうだって自分の役を懸命に演じるし、おもいつくままに喋るのだ。


私は場末のスナックのママと、大学生の従業員トモちゃんの物語を、三角関係のもつれの、シュラバ♥︎ドロドロにしたい。だけど、トモちゃんを演じる共演者(つまり部員)は、おしぼりを畳みながら淡々と、実家の母親の為に仕送りしてるだの、父親が幼い頃になくなっただの、とだらだらと喋り(ほんと失礼)、人情話に持っていこういこうとしているのだ。


私はママとして相づちを打ちながら、内心「時間のムダ! このままじゃオレが想像する結末に持って行けないじゃないか!」とイライラしていた。

このまま「うんうん、わかるわぁ」なんて賛同していたら、先輩の手が叩かれて「はい、そこまでぇ!」と物語は強制終了になってしまうのだ。
(話が転がらなかったら即終了というルールなのだ)


冗談じゃない!
なので私は強硬手段を取る。

「っていうかトモちゃん! こないだあんた、シゲちゃんと同伴してたでしょうっ!」

叫んだ私を、共演者がきょとんと見ている。彼は今まさに、長野に残してきた母親が心配だと話していたので、「なぜ急に?」とびっくりするのは当然だ。だが、この間隙を私は突く。

「この、泥棒猫があっ!」

強引である。今までの流れは、まるっきり無視である。だけど、これで、まさに叩かれようとしていた先輩の手が止まる。今だ、と私はまくし立てる。アタシ(ママ)は、どれだけシゲさんを愛していて、この店の常連になってもらう為にどれほどの苦労をしてきたか、それを、新参者のアンタにめちゃくちゃにされた。許さない。アタシはアナタを……「許さないわあっ!」

そう怒鳴りながら、稽古場をめいっぱい使って身振り手振りで怒りを表現する。こうなると共演者はなにも言えなくなる。
いや、言おうとしたその声をかき消すほどの大音量で怒鳴っているから、言えないのである。
そして共演者が沈黙した隙に、物語を後戻りできないところにまで一気に進めてしまい、結果、そのエチュードは、私のひとり芝居になる。


これ、役者としてマナー違反、いや、最悪なんである。


演技は共同作業。出演者のお互いの協力で、言葉のキャッチボールを繰り返して、その関係性を丁寧に作っていく。その上に、物語を立ち上げるのが、芝居のセオリーなのである。
しかし、当時の私はそんな事知ったこっちゃなかった。なにしろ私は役者になんて興味がない。とにかくストーリーを作りたかったのである。


私は、共演者を無視して、そして演出家の先輩の意図をも無視して、スナックのママのセリフを借りて、グイグイとこのエチュードを引っ張り、あわよくば舞台『ドリーミング』をも、自分色に変えようとしていた。


つまりこれは、クーデターなのであった。

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