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思弁的実在論と仏教は接続可能か


こんにちは。哲学チャンネルです。

ただいまクァンタン・メイヤスーの『有限性の後で』を下敷きに、思弁的実在論に関する動画シリーズを絶賛製作中でございます。
完成し次第メインチャンネルにて配信しいますので、もうしばらくお待ちください。

さて、そんなこんなで思弁的実在論について考えることが、ここ数週間多いんですね。結論から言うと思弁的実在論は『理由律』を否定するんですよ。つまり「〇〇には〇〇という原因がある」という因果を棄却しちゃうんですね。

それと反対に、因果をとても重要視する思想といったら仏教じゃないですか。

その二つって共存できる可能性があるのかなぁなんて、先ほど爪を切りながらぼーっと考えていたわけですね。それに対する結論は一切出ていないのですが、頭の整理のために今感じていることをそのまま書きたいと思います。

お暇な方は、ぜひお付き合いください。


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クァンタン・メイヤスーの『有限性の後で』

動画制作のために何度も読み込みはしたものの、なんとまぁ難解な書物です。無理くり自分を納得させる形で消化はしましたが、まだまだちゃんと理解できていない細かい部分がたくさんあります。
こうやって消化が難しい書籍や思想のあれこれをオンラインで話し合うみたいなコミュニティができたら最高ですよね。そんなことにも今年はチャレンジしたいと思っています。

それで。
『有限性の後で』ではカント以降の哲学に対して、いくつかの重要な指摘が加えられるのですが、その中でもとりわけ刺激的なのが理由律の棄却なんですね。

以下、超簡単にそのロジックを表します。(簡単にするために少し間違った言い回しも含まれています。ご了承を。)

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今お風呂出てから記事を見返してみたのですが、以下の説明では「理由律」がどうして棄却されるのかの説明になっていませんでした。朦朧としながら書いたのですみません。文末に補足の文章を付け加えておきますので、よろしければご覧になってください。
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哲学の世界では長い間、独断的形而上学と表現できるような思考方法が一般的でした。世界には私たちの存在とは全く無関係に何かが存在するという考え方。神の存在証明なんかも独断的形而上学特有の命題ですね。
でも、カントが現れてその流れは一変しました。彼は物自体という概念を提唱し、私たちは物自体ではなく、物自体から得た情報を先天的な認識形式というフィルターを通して、それを現象として認識しているだけだと考えたのです。だからその根本となる物自体を直接認識することはできない。カントのこの主張の説得力は強烈でした。それもあって、以後現れたさまざまな哲学のほとんどはカントの影響を受けています。
要は「私たちは主観と客観の関係性を認識していて、主観や客観を直接的に認識することはできない」という相対的な認識論が、カント以後の哲学に決定的な変化をもたらしたのです。
メイヤスーはこのような思考方法を相関主義と呼びます。
カントがもたらした相関主義は、哲学に内向的で閉鎖的な性質をもたらしました。相関主義を採用している以上「相関の外にある絶対的なもの」の存在を認めることができないわけですからね。それは例えば「地球は45億年前に誕生した」という、人間の主観が発生する前の言明に関しても同じです。相関主義はこの言明を文字通りに解釈することができません。
メイヤスー(ら)が提唱する思弁的実在論は「絶対的なものにアクセスすることは可能である」と主張します。そしてそれは独断的形而上学のような、絶対的存在者の存在を前提にする方法とは別の仕方で。
『有限性の後で』では主に「絶対的なものにアクセスすること」のためには具体的に何が必要なのか、について論じられています。
そしてその道具立ての過程で現れるのが理由律の棄却、すなわち非理由律の採用です。
理由律とは簡単にいうと「物事には必ずそうなるような理由がある」という原理。
もっと簡単にいうと「必然性は必然的だ」という信念です。
しかし、相関主義の観点から考えるとちょっとそれはおかしい。相関主義は「相関の外のことは認識できない」と言っているわけですから『必然性の必然性』という相関の外にある主張を認めることができません。それどころか、相関主義の立場からでも「相関がなくなったときのこと」を想像することができます。一番わかりやすいのは死ですね。死んだ後は、私たちの主観は(たぶん)消え失せて、そこに元々あった相関関係は存在しなくなります。というふうに考えていくと、こと相関に関しては、それが必然的ではなくて偶然的であることがわかります。もっと突っ込むと、相関は必然的に偶然的なのです。つまり、相関主義の観点から思考を進めると「必然性の必然性」を認めるどころか、その全く反対にある「偶然性の必然性」を導出できることになってしまう。そして「偶然性の必然性」とはまさに非理由律なのです。
非理由律とは「物事がそうであるような理由は存在しない」という原理です。とても安易に説明してしまいましたが、このような流れで非理由律が導出され『有限性の後で』の中でも有名な「私たちの世界は数秒後に全く違う世界になる可能性がある」という直感的に理解不能な結論が出来上がるのです。

で、理由律を棄却するということは、因果の法則を捨てることと同義なんですね。私たちが因果だと思っているものは、たまたまそのように思っているだけのことであって(この辺りはヒュームが詳しく研究しています)実際はそんなもの存在しない。

わけがわからない結論なんですけど『有限性の後で』を読んでいると、納得させられてしまうんですよね。特に間違ったことを言っているわけではない。

でも仮にそれが正しいとすると、この主張は仏教と真っ向からぶつかっちゃうと思うんですよね。

釈迦は色々なことを語りましたが、その中でもとりわけ因果の法則。つまり縁起の概念が重要じゃないですか。
縁起の概念をぶっ壊すような思弁的実在論の主張は、仏教側からどのように見えるのかなぁなどと、答えの出ない疑問に悶々としているわけです。

この辺りについては、仏教にお詳しい方にぜひお話を伺ってみたい。


とはいえ、基本的に楽観的な私は「まぁ意外と共存できるのでは」などと思っています。

そもそも理由律を棄却するということは、科学を一部否定するということでもあります。それこそ科学は物事の理由を突き詰める学問ですからね。
思弁的実在論に言わせれば「今まで安定していた自然法則が、明日全く別のものになる可能性がある」とするわけですから、こんなの科学の立場からしたらふざけんなって主張なわけですよ。

でも、この辺りはうまく整合が取れます。
実際メイヤスーは科学を否定していません。
科学は「現在有効な自然法則を正しく記述している」と評価しているし、なんなら「相関主義には不可能な、絶対的なものへのアクセスを可能にしている」とまで言っています。だけどそれでいて、明日その記述が全部ゴミになるような変化が来る可能性は必然的に存在していると考えるのです。

じゃあなんで今までの長い期間、そのような変化が起きなかったんだよ。という問いが当然のように浮かんでくると思います。
それについても明確な回答があるのですが、それをここに記す体力がもうありませんので、詳しくは今後公開される動画シリーズをお待ちください。

仏教の話に戻りましょう。

仏教において語られる縁起は、この世の絶対的法則でしょうか。
この辺りは解釈によって大きな差が出るところなんでしょうが、個人的にはそうではないと思っています。
そもそも、釈迦は形而上学的な問題については語りませんでした。いわゆる無記というやつですね。語れないものは語るなと。
だから、釈迦が説いた縁起は「世界の絶対的法則」ではなくて「私たちから見た世界の構造」に留まっているのではないか。であるならば、この主張は思弁的実在論とぶつかりません。だって「私たちから見た世界の構造」が今、現にそうなっているのは絶対に確かなことだから。

むしろですね、釈迦が大きな影響を受けたとされるウパニシャッド。
そこで説かれる梵我一如は、思弁的実在論でイメージされる世界のカオスと非常に近いのではないかという気さえします。
因果の法則は私たちの目の前に確かに存在していますが、それが世界の絶対法則かはわからない。もしかしたら世界とは私たちが思っている以上に偶然的でカオスな存在なのかもしれない。
そして、そのカオスな存在をそれそのまま受け入れて、私たちを苦しめる因果という表層的な鎖を解き放った場所にあるのが悟りであり涅槃なのではないか。そのように考えることさえできます。(無理やりすぎますかね)


思弁的実在論は完成していません。まだ思想が出来上がる途中です。
科学や哲学的思想が先鋭化してきた昨今。
それぞれの一見対立するように見える主張が、緩やかなカーブを描いて、結局は同じところに向かっているのではないか。向かっていてほしい。なんて想像を膨らませる仕事に疲れた金曜日の午後でした。


今後はこんな感じで、特に何を主張したいのかわからない記事も書いていきます。見捨てないでください。今後ともどうぞ宜しくお願いいたします。




補足(記事投稿3時間後追加)

・独断的形而上学は独断的に絶対的な存在者を想定する
・その代表的な例はデカルトにおける神の存在証明
・デカルトの理論
→神は完全である
 存在しないのは不完全である
 よって神は存在する
・「神は存在する」という文章には存在が前提されている
・「リンゴは甘い」にはリンゴの存在が暗に前提されているように「リンゴは存在する」という文章にはリンゴの存在が初めから内包されている。
・よって「神は存在する」は無意味な言明である。
・それどころか「存在する」という述語ではどんな主語の存在も肯定することができない。
・独断的形而上学の方法では絶対的存在者を想定できない。
・理由律は「どんな出来事にも理由がある」とする原理である。
・何かの理由には、それ自体にまた理由がある。
・よって理由は無限に連鎖するか、行き着いたところに「それ自身がそれ自身の理由となる究極の理由」があるはずだ。
・前者は想像できない。人間の認識能力を超えている。
・後者も無理。「それ自身がそれ自身の理由となる究極の理由」は絶対的存在者と同義であるから、先ほどの論理より、これは利用できないことになっている。
・理由律は使えない。じゃあ非理由律が正しいのか。
・相関主義の中でもとりわけ「強い解釈」の相関主義(ウィトゲンシュタインなど)においては「相関の外側については思考することすらできない」と考える。
・これが正しいのだとすると理由律や非理由律を考えることは「相関の外」に関係しているから、どちらが正しいという言及ができない。
・しかし、強い相関主義はその立場を肯定するために「偶然性の必然性」を主張せざるを得ない(これは本文中の説明を参照されたい)
・偶然性の必然性は相関の外の事柄である。
・強い相関主義についても相関の外について言及している。
・よって相関の外については限定的に語れると考えられる。
・理由律が間違っているならば、非理由律が正しいと、これで言うことができそうだ。


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