誰かの物理運動に影響を与えるということ
こんにちは。哲学チャンネルです。
今回はすごくフワッとした形で、わたしが思う『自由意志』とそれに伴う人生論についてコラムを書きたいと思います。
あくまでもフワッとしていますので、フワッとした気持ちでご覧いただけると幸いです。
それでは本編にまいります。
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哲学の世界では昔からとても重要な問題である『自由意志』
「自由意志はあるのだろうか?」という半ば形而上学的なこの問題に、現時点で普遍的な結論は出ていません。個人的には『自由意志』なんてものに着目しないで生きていくことこそ最良だと思っているのですが、知ってしまったらもう気になってしょうがない。(知のデメリットである)「自由意志はないかもしれない」という疑念に一度触れてしまったが最後、普遍的に答えが見つけられない以上、各自それぞれの認識の上で「答えみたいなもの」を用意し、その設定の上で生きていかねばなりません。
当然、そのような「答えみたいなもの」を必要とせずとも上手に生きていける人もいるでしょう。しかし、わたしの場合は無理です。何かしらの疑問があった際に、それをそのままにして生きていくことができない。それが仮に間違いだったり雑な理論だったりしたとしても、何かしらの答えを自分の中に設定できないと気持ち悪くて眠ることも起きることもできません。我ながらめんどくせー性格だなと思います。
ということで、自分なりに『自由意志』について考えたりするわけですね。
(今回のコラムでは極力専門的な理論や思想には触れません。ご興味のある方は『自由意志の向こう側 決定論をめぐる哲学史 (講談社選書メチエ)』などをはじめとする書籍をご覧になったり、手前味噌ではありますが哲学チャンネルの動画をご利用いただけると幸いです。)
まず大前提として、感覚的には『自由意志』はあるとしか考えられません。今現に「わたし」というものを認識している「わたしのようなもの」(意識)はあるわけだし、それがないというのは流石にわけがわからない。そしてその「わたし」は何かを思い描いて、それを身体に命令して行為をしているような気もするわけです。その「わたし」を『自由意志』と表現しても特段間違っていないような気がする。
でも、もう少し突っ込んでロジカルに考えを巡らせてみると、その感覚に自身が持てなくなるんですよね。
例えば唯物論的な立場に立つとどうでしょうか。唯物論においては、世界の根源にあたるものを全て物質的な要素で説明しようとします。わたしはどちらかというと唯物論者です。世界の全てを人間の持ちうる科学で説明することが不可能だとしても、世界はどこまでも物理的(量子力学的)であり、素粒子たちが何かしらの法則に則って運動することで世界が成り立っており、それ以外の要素は存在しないと考えます。(他方、わたしは一割ぐらいシミュレーション仮説論者でもあるのですが、それと唯物論的立場は矛盾しないと思っています。)
唯物論的な立場に立った際に『自由意志』はどう解釈されるのでしょうか?唯物論的に言えば「自由意志があるとするならば、それは物質的なものである」となります。科学的に言えば「自由意志があるとすれば、それは脳内の電気信号が何らかの形で表出したものである。」となります。確かにそれは考えられるかもしれません。でも、これってよく考えるとおかしいんですよね。『自由意志』は自由な意志ですから、自発的なはずです。語弊がある言い方をすると、自由意志から何かが始まることがあると言えるわけです。これは唯物論の立場とただちに衝突します。『自由意志』が存在するとしたら【自由意志は物質的なものである→自由意志は他の物質と同様に決定論的な法則に従っている→自由意志は自発的ではない】という矛盾が秒で現れてしまうからです。となると「自由意志は非物質的なものである」と解釈せざるを得ないのですが、そうするとただただ単純に唯物論と矛盾します。(非物質的なものを認めることになりますからね。)つまり、唯物論の立場に立つと『自由意志』の存在できる隙間がどこにもないのです。
また、今触れた通り『自由意志』を想定するとどうしても非物質的な観念があらわれてしまいます。ここではこれを『魂』と表現しましょう。『魂』という概念がある時点で、世界は二元論的、もしくは多元論的に説明されることになります。でも『魂』って何でしょう?少なくともわたしにはわけワカメです。仮に『魂』が決定論的な物理現象に介入できる存在だったとして、それを証明する術はあるのでしょうか?異論反論が多いところだと思いますが、少なくともわたしはその証明は不可能だと考えています。(消去法、背理法的な後ろ向きの証明は可能かもしれないが)するとどこまで行っても『魂』における主張はフィクションの域を出ない。
こんなことを考えていると『自由意志』の迷子になってしまうのですね。これではあかん。ということで、わたしはあくまでも個人的に自分が納得できるとりあえずの妥協点を模索してきました。
とりあえずの妥協点なので、今後も変化するものではありますが、ここにそれを簡単に示しておこうと思います。
まず、世界はどうしようもなく決定論的であると考えます。これは唯物論的、物理主義的、科学的な立場だと言えるでしょう。とはいえ、人間にその決定論的な記述(シナリオ)を理解しきることは不可能だと思っています。いくら科学が発展しても、世界を数式で記述しきることはできないでしょうし、ましてや未来を予測することなんてもってのほかだと思います。(根拠はありません。何となくです。)
同時に、人間に備わっているのはあくまでも『意識』であり『自由意志』ではないと考えます。『意識』とは人間が感覚的に受け取るさまざまな刺激をひとまとめにした質感のようなもので、そこには本来連続性も主体性もありません。わたしたちはそれらの束を自分というアイデンティティにひとまとめにすることによって精神的な境界線を形づくっています。ですからあくまでも『意識』とは受動的なものであり、『意識』に行為を決定づける力はない。そのように認識しています。
こうして考えると、とりあえずの大きな矛盾はなくなり、わりと気持ちよく納得できます。わたしの場合は。
しかし上記のような考え方は、あまりにも無機質で、無味乾燥で、味気のないものです。自分を含めた全ての他者は単なる物理現象の一つでしかなく、それらは法則によって機械的に動いているだけの存在だと言っているわけですから。また、その機械的な運動の質感を感じ取っているのが『意識』ならば、その『意識』はどこまで行っても傍観者・鑑賞者であり、物語を紡いでいく力はどこにも存在しないことになってしまいます。
ここからが本コラムの主題なのですが、わたしはこうした味気のない前提を肯定した上で「それでも生は素晴らしい」と言いたい。
第一に、物理現象の一つである自分を含めた他者には、間違いなく『意識』が存在します。(他者の意識を証明できないというツッコミはここではやめましょう。)この『意識』が素晴らしい。人間の最高の持ち物は『意識』だと思います。仮にわたしたちの行為が決定論的に記述されたものだとしても、それに対して『意識』が何らかの反応をし、確かにわたしたちは「何かの感じ」を感じるわけです。その一点を以て十分に「生きる意味」になり得ると思うし、例えば人を愛する(という意識)に足る事実だと思っています。
第二に、仮に世界が決定的な法則によって記述されていたとしても。つまり未来はもうすでに完璧に決まっていたとしても。その未来を人間の認識能力で見通すことができないのだとしたら、それはもはやわたしたちにとっては非決定的だと言えると思うのです。例えば過去はいつでも決定的です。過去から見た未来が現在になるわけですが、そういう意味では過去から見た現在は決定的だということにならないでしょうか。でも、過去の自分は現在に至る過程を決定的に記述することができない。だから非決定的と言ってもあながち間違いじゃない。また、映画で考えてみても良いかもしれません。ある映画が完成した瞬間に、その映画のストーリーは決定論的です。何度見ても同じストーリーが繰り返されます。だからその映画がつまらないということになるでしょうか。ストーリーを知らない人間からしたら「映画のストーリーがすでに確定していること」はデメリットにならないはずです。このように、仮に世界が決定論的に記述されていたとしても、それを人間が完璧に認知できない以上(すごい雑な言い方をします)決定論だか非決定論だかは別にどっちでも良いのです。そのようにして、決定論の問題は乗り越えることができると考えています。
そして、その考えは『自由意志』にも適用できるのではないでしょうか。わたしたちがわたしだと思っている何かには、自発的な性質はない。意識についての研究が進めば進むほど、どうやらそれがマジっぽいことがわかってくる。でも、それはどこまで行っても完璧な証明ができません。同時に先述の通り、世界は決定論的に記述されているけれども、それを全て見通すこともできない。人間なんてそんな程度の存在なわけです。
そして、なんといってもわたしたちは感覚的に『自由意志』の存在を感じています。「わたし」は間違いなくいるし、「心」も間違いなくあります。「わたし」や「心」が何かを選び取って、判断して、決断して、選択しているとリアルに感じられます。じゃあそれで良いじゃないですか。
多分、世界は決定論的だし、自由意志はないと思います。でも、世界は非決定的で自由意志があると思って生きても破綻するところがどこにもないのです。それを破綻させられるほどの認識能力を、人間は持っていないのです。
結局そう考えると、最初から『自由意志』について何も考えなかった人と同じ場所に帰ってきてしまいます。でも、わたしはこの一連の迷子がとても重要だと思っています。一旦『自由意志』や『決定論』と向き合った上で、それを肯定した上で、もう一度それを乗り越えて最初の結論に帰ってくる。見た目上は同じでも、その過程の厚みがなんらかの人生の助けになるような、そんな気がしています。
わたしはこのような思想のもと、自分の人生を生きています。
だからわたしの人生の目的の最大のものの一つに「他者になんらかの影響を与えたい」というものがあるのです。
人は物理現象です。全ての行為や関係は物理運動の一つでしかありません。
それならば、誰かの物理運動に影響を与えるような生き方を(あたかも自由に)選び取っていきたい。そんなふうに考えています。
哲学チャンネルの活動などは、その最たるものですね。
自分という存在は多分本質的には「ない」のです。でも、それを踏まえた上で自分として生きていくのであれば、どうせなら自分というものを出来るだけ大きく表現したい。自分が物理現象の一つならば「自分を表現する方法」は他の物理現象への影響だろうと。だから、生きているうちに少しでも何かしらの運動をして、その運動が他者としての物理運動に影響を与えたら嬉しい。意外とこの考えが生きるモチベーションになっています。(もちろん、その最たるものは家族なんですけどね)
無味乾燥で無意味な世界と、感情に溢れたいろとりどりの世界は『意識』において矛盾せずに両立することができます。
それに気づいて、生きるのがとても楽になった男の戯言でした。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
それではまた次回!
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