見出し画像

文章は音楽だ

◻︎提供スポンサー
ハイッテイル株式会社
Mofuwa



文章は音楽である。

「リズムとメロディとハーモニーがあること」という西洋音楽的な定義に照らし合わせても、文章には音楽的な性質が十分に備わっていると解釈できる。

また、かのアウグスティヌスは「音楽とは音をよく整える知である」と言った。彼の定義に照らし合わせれば、文章はまさに音楽である。

とはいえ、文章は音楽ではない(どうした?)

文章から音は聞こえてこないし、文章を楽器で演奏することもない。
音楽的ではない要素を持つ文章だからこそ、文章には音楽にはない良さがある。


定義の解釈はどうでも良い。
ここで主張したいのは「文章を音楽として捉えるとすごく面白い」ということである。

これは”書く側”にも”読む側”にも言えることだ。
その説得をしたいので、もう少しだけ駄文に付き合ってほしい。



第一に、文章にはリズムがある。

リズムの作り方はさまざまであるが、一番わかりやすいのは句読点の置き方であろう。

親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴やつがあるかと云いったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

親譲りの無鉄砲で、小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分、学校の二階から飛び降りて、一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜ、そんな無闇をした。と聞く人があるかも知れぬ。別段、深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして、二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴やつがあるか。と云いったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

上記の文章は漱石『坊ちゃん』の書き出しであるが、比べてみると読み口が全く違うことがわかると思う。文節をどこに持ってくるか、読点をどのペースで配分するか。そんな些細なことで文章のリズムは大きく変化し、読む人の「ノリ方」に影響を与える。

これはまさに三拍子や四拍子、あるいは七拍子などの違いであろう。ここに個性が含まれるとサンバやボサノバやワルツといった固有名詞が生まれる。

文章を読むときは作者が意図したリズムを感じ取り、書くときはリズムを意識して言葉を置いていく。その感覚だけで、文章の読み書きが少し楽しくなりそうな気がしないだろうか?



第二に、文章にはキーがある。

例えば、メジャースケールとマイナースケールでは感じる「明暗」や「温度」が違うのと同様に、文章にも間違いなく「明暗」や「温度」が備わっている。

例えば

お疲れ様です
本日のミーティングですが、所用があり参加することが難しそうです
大変申し訳ありませんが不参加とさせてください

お疲れ様です!
本日のミーティングですが、所用があり参加することが難しそうです…
大変申し訳ありませんが不参加とさせてください!

どちらの文章が良いとは判断できないが、少なくとも後者の文章のほうが「明るく」「暖かい」感じがしないだろうか?

※どこかで見た話で、最近の若い世代は「!」を「怒っている」「怒鳴っている」と捉える傾向があることを知った。このように、文章から感じる印象は人によって違う。音楽も同様である。


また、漢字やカタカナの分量でも文章の「明暗」や「温度」は変わる。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

こくみんは、すべてのきほんてきじんけんのきょうゆうをさまたげられない。このけんぽうがこくみんにほしょうするきほんてきじんけんは、おかすことのできないえいきゅうのけんりとして、げんざいおよびしょうらいのこくみんにあたへられる。

国民は、このファンダメンタルヒューマンライツの享有を妨げられない。このコンスティテューションが国民にギャランティするファンダメンタルヒューマンライツは、侵すことのできないフォーエバーのライツとして、カレント及びフューチャーの国民へギブされる。

こうして憲法を弄ると怒られるかもしれないが、もちいる表現によって「明暗」や「温度」が変わることはご理解いただけると思う。

文章を読むときは作者が意図したキーを汲み取り、書くときは自分が表現したい「明暗」や「温度」を具体化できるように工夫する。その感覚だけで、文章の読み書きが少し楽しくなりそうな気がしないだろうか?




第三に、文章にはコードがある。

例えばJPOPに小室進行があるように、文章には「この流れが続いたらこれ」のような響きやつながりがある。作者ごとに得意なコード進行を持っており、それがその作者の文章をその作者のものたらしめている。

わたしは若い頃から半音に敏感であった。だから、半音を多用する歌手(例えばaiko)の歌を聞くと、他の人が歌っていたとしてもその特徴で誰の歌か判別できた。

これと同じように、文章のコード進行から作者を予想することがわりと可能である。

彼女が大っぴらに涙を流すことを見たのは、狩野にとって一度だけ。だから今日は、二度目だ。

これは辻村深月さんの『スロウハイツの神様』から引用した文章である。
彼女の文章には多用される倒置法と、「だから」の(アクセントとしての)特殊な使い方があり、それによって辻村深月っぽいコード進行を表現している。

世の中には残念なことと、そうでないことがある。私の周囲にあるもので、私が関知するものの大半は、前者に含まれる。それ自体が残念なことである。私の周囲に存在しないものは、私には関知できないし、また、私の周囲にあっても関知できないものは、残念に思うことさえできない。それも残念なことだ。どうも、私は、一生かかって残念なことを集めている気がする。残念なコレクタといえるかもしれない。そう思うと、多少は気が楽だ。

この文章は森博嗣さんの『赤緑黒白』からの引用である。
カタカナ語の伸ばし棒を意図して使わないのはあまりに特徴的だが、それ以外にも森博嗣っぽいエッセンスが詰まっている文章である。論理的で哲学的な言い回し、認識論をベースに置いた疑問設定、どこか世の中を冷めた目で見ている世界解釈。その全てが森博嗣っぽさを構成しており、マニアになると文章を見ただけで森博嗣の作品みを感じ取ることができる。(最も、森博嗣さんの影響を受けた沢山の作家の似たような文体が増えているので、判別は難しくなっている)

このように、文章にはそれぞれ固有のコード進行がある。コード進行の中には、王道のものもあれば、珍しい特徴的なものもある。


コード進行には法則があり、その法則を外れると違和感が生まれる。
文章を書くとき、コードとコードの繋がりを意識することは非常に重要である。

新郎の太郎君とはかれこれ8年の付き合いになります。彼が弊社に入社した当初から一緒に仕事をする機会が多く、常に全力で仕事に取り組む彼の姿勢に、いつも刺激をもらっています。

結婚生活は楽しいことばかりではありません。きっと小さな失敗をすることもあるでしょう。しかし、夫婦で力を合わせれば乗り切れないことはありません。新郎新婦で手を取り合って、ぜひ幸せになって欲しいと思います。

ありきたりな結婚式の祝辞だが、上段の文章と下段の文章に多少の隔たりがある。音楽的に言えば、コード進行に違和感がある。
上段では太郎君の仕事に対する姿勢を褒め、下段ではそれを受けて「だから結婚生活の困難も乗り切れる」という結論を導いている。しかし、何となくその論理が繋がっていない気がする。あるいは繋がりが弱い気がする。響きに不協和音が含まれているような気がする。

例えばこう修正したらどうだろう。

新郎の太郎君とはかれこれ8年の付き合いになります。彼が弊社に入社した当初から一緒に仕事をする機会が多く、常に全力で仕事に取り組む彼の姿勢に、いつも刺激をもらっています。特に尊敬できるのは、彼のミスに対する姿勢です。仕事ですから、当然失敗することもあります。しかし、彼はミスを必ず取り返します。失敗したあと、すぐに前を向いて状況をリカバリーします。年長者ながら、その彼の姿勢からいつも学びをいただいています。

結婚生活は楽しいことばかりではありません。きっと小さな失敗をすることもあるでしょう。しかし、夫婦で力を合わせれば乗り切れないことはありません。新郎新婦で手を取り合って、ぜひ幸せになって欲しいと思います。

補足(追加コード)を入れたことで、文章の論理的な繋がりが自然になった気がしないだろうか。太郎君が普段からもつ失敗に対する姿勢が、結婚生活にも活かされるという流れができていることにより、上段と下段の進行がスムーズになっている。

もちろん、これを以て後者の文章の方が「良い」と言えるわけではない。ときには違和感をあえて残すことも風情だったりするからだ。

しかし少なくとも、文章にはコード進行がある。

文章を読むときは作者特有のコード進行を味わい、書くときはどのコード進行を用いるべきか試行錯誤する。その感覚だけで、文章の読み書きが少し楽しくなりそうな気がしないだろうか?



読書クラスタの自分としては、文字を読むことにもっと喜びを感じる人が増えてほしいと思っているし、これは書く行為に関しても同じように考えている。

少なくとも、文章は音楽と同じぐらい面白い。

音痴でも良い、声量が小さくても良い、音程を聞き取れなくても良い。
とにかく文章を楽しむこと。

NO TEXT NO LIFE.

さて。今日はどんな音楽を聴こうか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?