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「正しい」と「間違っている」の境界線

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今この瞬間も、世界のどこかでは”議論”が行われている。

私が思う”議論”の定義は「違う主張を持つ者同士が、コミュニケーションによって合意形成を求める営み」である。目的は合意形成だから、そこに論破の必要はないし、どちらが正しいというジャッジも必要ない。

とはいえ、多くの”議論”っぽいものはその定義から外れているように見える。論者は自身の主張をどこまで行っても通そうとするし、ときに相手を”論破”することが目的になっていることすらある。私はこのような営みを”議論”ではなく”喧嘩”であると認識する。そこに全体としての生産性はないように思えるからだ。(とはいえ、主体としては、論破をすることで快楽を得たり、主張をゴリ押しすることで持論についての論述力が向上するといった利益があるだろう)

私は”喧嘩”はダメだと思っている。なぜか。
それはそもそも「正しい」や「間違っている」という概念に、非常に大きな揺らぎがあるからだ。今回はそんなことについて考えてみようと思う。


実際の議論や喧嘩においての言語構造は非常に複雑なものであるが、ここでは便宜上、それをかなり簡略化して「三段論法」を例に挙げる。

すべての「人間」は「死ぬ」
「ソクラテス」は「人間」である
ゆえに「ソクラテス」は「死ぬ」

このとき

すべてのAはBだ
CはAだ
ゆえにCはBだ

という論理構造が成り立っている。
※厳密には「すべて」という語は全称量化子(「∀」)として表現するルールがあったりするのだが、ここではそれも無視する。

私たちは上記の推論を見て「これは正しい」と判断する。ではなぜこの推論を「正しい」と判断できるのだろうか。当たり前に判断できるからあまり考えたこともないかもしれないが、もう少しだけ厳密に”正しさ”を定義してみたい。


結論からいうと、私たちは何かの文章や推論を見た・聞いたときに「論理的な正誤」と「意味的な正誤」を総合して、その内容の”正しさ”を検討する。


「論理的な正誤」とは内容に関わらない、文の形式だけで正しいと言えるようなものである。


例えば

すべてのAはBだ
CはAだ
ゆえにCはBだ

は正しい。
記号部分には何を入れても正しいから、試してみてほしい。

一方で

AはBだ
AはCだ
ゆえにBはCだ

は常に正しいと言えるわけではない。


例えば

「1」は「数字」だ
「1」は「小さい数」だ
ゆえに「数字」は「小さい数」だ

は成り立たない。論理構造に誤りがあるから、導出される結論も誤っている。


このように、論理的な推論には一定のルールがあり、そのルールが守られていないと、その推論から導出される結論は間違ったものとなる。これが「論理的な正誤」である。


「意味的な正誤」とは、条件文における内容の正誤のことである。

先ほど見た三段論法は論理的に正しかった。

すべてのAはBだ
CはAだ
ゆえにCはBだ

しかし上記の記号に以下のような情報を入力したらどうなるだろうか。

すべての「イルカ」は「空を飛ぶ」
「ソクラテス」は「イルカ」だ
ゆえに「ソクラテス」は「空を飛ぶ」

これは明らかに誤っている。ソクラテスは空を飛ばないはずである。
このように、論理的に正しい推論構造において、前提となる条件文に誤った情報が含まれていると、間違えた結論が導出されることがある。

これが「意味的な正誤」である。

※ちなみに、条件文が全然間違っているのに結論が正しいパターンもある。

すべての「イルカ」は「空を飛ぶ」
「カラス」は「イルカ」である
ゆえに「カラス」は「空を飛ぶ」

※さらにちなみに、論理的にも意味的にも間違っているのに結論が正しいパターンもある。

すべての「わたあめ」は「ゴリラ」である。
「わたあめ」は「動物」である。
ゆえに「ゴリラ」は「動物」である。


非常に簡易的な説明ではあるものの、簡易的なだけにイメージしやすいのではないだろうか。私たちは「論理的な正誤」と「意味的な正誤」を総合して、その内容の正しさを検討する。と言うことは「論理的なそれ」と「意味的なそれ」にはそれぞれパラメーターがある。考えうるパラメーターは

・正しい
・間違っている
・正誤がわからない

の三つである。

このパラメーターは「論理的なそれ」と「意味的なそれ」に関して、それぞれに必ず何かが割り振られる。と言うことは、私たちの正誤の判断は以下の9つのパターンに分類できることになる。

①論理的にも意味的にも正しい
②論理的に正しく意味的には間違っている
③論理的に正しく意味的な正誤はわからない
④論理的に間違っていて意味的には正しい
⑤論理的にも意味的にも間違っている
⑥論理的に間違っていて意味的な正誤はわからない
⑦論理的な正誤はわからないが意味的には正しい
⑧論理的な正誤はわからないが意味的には間違っている
⑨論理的にも意味的にも正誤がわからない


さて。

私たちは上記のうち、何を”正しい”と認識しているのだろうか。

「①論理的にも意味的にも正しい」に関しては疑問の余地はあまりないように思う。(私自身は、そもそも①にあたる事実が存在するかどうかに懐疑的なのだが)普通は①は完全に正しいと判断される。

③論理的に正しく意味的な正誤はわからない⑦論理的な正誤はわからないが意味的には正しいは、わりと”正しい”と判断されがちである。

論理的に正しいかどうかがわからず、かといって間違っているとも言えない。その場合、意味的に正しいと思えたら、多くの場合全体の判断が”正しい”となる。いわゆる「どう言う推理をしているかはわからないが、言っていることは全部正しいから結論も正しそう」というやつだ。

意味的に正しいかどうかわからず、かといって間違っているとも言えない。
その場合、論理的に正しいと思えたら、多くの場合全体の判断が”正しい”となる。いわゆる「話している意味はわからないが、理路整然としているから結論も正しそう」である。

③⑦に関しては、本来結論を保留することが望ましいのだが、人間は「保留」が苦手な生き物だから、片方の要素の正しさに引っ張られて極端な判断をしてしまいがちだ。このように、前提や情報が間違っていても、それを相手が認知しなければ結論を正しいと思わせることが可能である。これはなにも為政者におけるそれや全体主義的なそれの話だけではない。子供に対する説得などにおいて、③や⑦は意図して使われることが多い。

厄介なのは⑨論理的にも意味的にも正誤がわからないである。
目の前にある情報について何も正誤判断ができない場合、そのケースにおいても、人間は思考の放棄という得意技を使ってそれを”正しい”と判断することがある。そこに同調圧力や支配圧力があれば尚更である。前述の通り、これは子供などに有効な方法であるが、ダブルバインドや抑圧の原因になり、間違っても多用することはオススメできない。


さて。

ここで非常に重要なことを付け加えたい。

それは「論理的な正誤」と「意味的な正誤」は万人にとって自明ではないということだ。


例えば、AはAであるという同一律はわりかし自明ではあるが

〔(AならばB)かつ(BならばC)〕ならば(AならばC)という推移律が正しいということは、論理学をかじった人間にしか分かりにくい事柄であろう。

このように「論理的な正誤」には人によって異なった判断が入り込む。

同様に、怪我をすると痛いということが正しいというのは自明であるが、サルトルは実存主義哲学者であるという文章は、それを知っている人にしか正しさを判別できない。

このように「意味的な正誤」には人によって異なった判断が入り込む。

このように「認知の範囲」においての正誤は、それを判断する主体によって大きな揺らぎを抱えている。


もっと言えば、個人の「認知の範囲」に関わらない、厳密に言えば「現在の人間の集合知における認知の範囲」を超えた正誤の不自明という問題もある。

例えば、光の速さは不変である。という文章は一般に正しいとされる。しかし、この事実が覆される可能性はあり、そういう意味で完璧に正しいといえない。

これにはあまり触れたくないが、AはAであるという圧倒的に正しそうな論理操作に関しても、それが特定の記号に依拠している以上、絶対的に正しいと言い切るのは難しかったりする。地球外にAはAではないを成り立たせる感覚機関を持った生物がいてもおかしくはないのだ。


このように、そもそも①〜⑨の範囲において、何を正しいと判断するかが人それぞれ違い、さらにその前提となる正誤の自明性もバラバラとあっては、複数人で”正しさ”を共有するのはとても難しいことのように思えてこないだろうか。今回書きたかったのはまさにそのことである。

※仮に全ての人間の知能と知識が同期され、完璧にみんなが同じ判断をするようになっても、実はこの問題は残る。知識というものは時間によって正誤が切り替わることがあるからだ。よって、時間をどう捉えるかという姿勢も「正しさ」の揺らぎを作っているのである。


以上のことから何が言えるか。

私は「”正しさ”なんて曖昧なものなんだから、それを探究するのを諦めよう」と言いたいわけではない。むしろその逆である。だからこそ、私たちは”正しさ”という概念を大事に取り扱わなければならないのではないか。

”正しさ”は一義的ではない。一義的ではないからこそ、それぞれの”正しさ”の基準を意識して作っていくべきだし、”正しさ”の危険性を理解して生きていくべきだと思う。

少なくとも、多くの人が”正しさ”の性質を理解したならば、”議論”という行為が本当に”議論”として機能するような世の中がやってくるのではないか。
そんなことを考えながら、今日も子供と”喧嘩”をするのである。


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