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僕のこと/Mrs. GREEN APPLE



こんにちは。哲学チャンネルです。

夕暮れ時にソファで寝転がりながらさまざまな歌の歌詞についてあれこれ考えるシリーズ(今考えた)第二弾です。

前回の「命の別名」の記事がわりと好評だったので、調子に乗ってシリーズにしてみました。
(夕方〜夜に黄昏ながら書いた記事なので、やべーこと書いていないか翌日昼に確認してからのアップとなります笑)


さて。

今回はMrs. GREEN APPLEの「僕のこと」を考察してみます。

*本記事は「絶対にそういう意図で書かれたわけではない歌詞を、勝手に膨らませてウホウホする」ことを目的に書かれています。自己満足要素が強い内容なのでそのつもりで流していただけると幸いです。


Mrs. GREEN APPLEというと「青と夏」


をはじめとした、アップテンポで青春チックな曲が多いように思われがちですが、意外にも(?)哲学的なトピックを数多く扱っているバンドでもあるのです。

そもそも「アウフヘーベン」という曲もありますし。


そういうわけで、ボーカルの大森さんが紡ぐ歌詞の世界が結構好きな私なんですが、その中でも特に「僕のこと」は良いんですよね。

お歌はこちら。
(あえてPVではなくライブ映像を選びました)


例によってJAS○AC大先生に叱られない程度に歌詞をかいつまんで紹介&考察をしていきます。

結論から書くと「僕のこと」は、「僕」(デカルトで言うところの「我」)という単位に着目することで、「僕」は「僕」であり、同時に「世界」でもあることを歌った歌である。そう考えます。

歌い出しはこのようにはじまります。

僕と君とでは何が違う?
おんなじ生き物さ 分かってる
でもね 僕は何かに怯えている
みんなもそうならいいな

世界には70億超の人間がいて、その人間たちは私たちを含めて大きな括りで同種です。そもそも、同種の生命体がひしめき合っているという構図にも一抹の恐怖を感じるわけですが、当然それぞれの生命体の間には差異があります。そして70億超の自我があります。(あるはずです)

私はよく70億を超える自我の集合を想像してしまい頭がパニック状態になることがあるのですが、そんだけ沢山自我があるって普通に考えてとんでもないことですよね。

そして、数えきれない量の自我はそれぞれがそれぞれに悩みや不安を抱えています。悩みや不安は人間に固有の質感なので、おそらく例外なくさまざまな自我がさまざまな悩みや不安を抱えています。

でも、それが信じられなくなることってないですか?もしかして、こんなにネガティブな感情を抱えているのは自分だけなのではないか?他の自我はこのような質感を感じていないのではないか?なんなら自分以外に自我はあるのか?(哲学的ゾンビ)

「みんなもそうならいいな」
とは、そのような疑心暗鬼を内包した感情を、端的に表している言葉だと思います。

その上で

ああ なんて素敵な日だ
幸せと思える今日も 夢破れ挫ける今日も
ああ 諦めずもがいている
狭い広い世界で奇跡を唄う

生きていく道には幸福も苦悩もあるけれど、それでも私たちはなんとか諦めずに生きている。

世界は客観という意味で広く、主観という意味で狭い。

カントから始まる相関主義的な観点で言えば「世界」は私たちの頭の中にすっぽりとおさまっています。その意味で世界は狭い。
とはいえ前述のとおり、すっぽりと世界がおさまっているさまざまな自我があり、それらの自我が空間的に広がりながら存在するという意味で世界は広い。

表現が難しいのですが、カントの前提に立って考えてみると、私たちは頭の中にある世界を見ていることになります。それは閉鎖的なイメージではあるものの無限の広がりを持っているわけです。
そして、頭の中の世界を遠くまで、無限に遠くまで見通してみると、その奥の方に(反転するような形で)また「僕」がいる。

古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる梵我一如にも共通する感覚だと思うのですが「狭い広い世界」とは、そのようなことを表しているのではないでしょうか。

さらにこう続きます。

僕らは知っている 空への飛び方も
大人になるにつれ忘れる
限りある永遠も 治りきらない傷も
全て僕のこと 今日という僕のこと

「空への飛び方」とは、空間的な隔たりを超越する主観のメタファーでしょう。「限りある永遠」「治りきらない傷」は時間的な隔たりと、その矛盾を表しています。
「僕ら」はそうした原初における世界との一体感(ひいては自分との一体感)を大人になるにつれ忘れていきます。
しかし「僕ら」が生きる上での悩み・苦しみ・喜び・世界・他者にまつわる全てのものは、やっぱり「僕」にとっての何かでしかない。
どんなに世界が広く自分がちっぽけに思えても、その世界はやっぱり「僕」にとっての世界でしかない。

僕らは知っている 奇跡は死んでいる
努力も孤独も 報われないことがある
だけどね それでもね 今日まで歩いてきた
日々を人は呼ぶ それがね 軌跡だと

「僕」は「僕」である。

そんな当たり前のことを認めると、世界は結局「僕」でしかないと思えます。そして、そんな世界を歩んできた軌跡は当然「僕のもの」であり、それが苦悩や不安に満ちていようとも、「僕のもの」であることには変わりない。

単なる解釈の仕方のようにも思えますが、真にこう思えたときに、あらゆる人生が肯定されるのではないか?私はそんなことを思います。
「僕のこと」はこのようにして締め括られます。

僕と君とでは何が違う?
それぞれ見てきた景色がある
僕は僕として 今を生きてゆく
とても愛しい事だ

まさにです。
「僕」と「君」は違う。
同じ世界に生きながら、違う世界を持っている。
そして「僕」も「君」も自分として自分の世界を生きていくしかない。それがどんなものであろうとも。

そして、そのような営みは、それ自体で愛おしい。


この歌は全体的に人生を悲観的、というか諦念的に捉えています。苦しいことや悲しいことを「素敵だ」と表現することにもどこか、投げやりな感情を見ることができます。

しかし、最後にはその悲観的・諦念的な認識を全部ひっくるめて「愛しい」と肯定するのです。なんという包容力!!!


前回の記事↓で

「私は基本的に悲観主義・厭世主義者であるが、それを踏まえて人生を『なんか素敵なもの』と肯定しているので、めっちゃポジティブである」
みたいなことを書いたのですが、まさにその感覚と呼応することが『僕のこと』で表現されているような気がします。


私の勝手な解釈なんですけど、その解釈を前提にしてぜひこの曲を聴いてみてほしい。もう一度リンクを載せます。


泣いちゃうって。


今回は以上!
またどこかでお会いしましょう。


協賛:ハイッテイル株式会社(HPはまだない)

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