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厭世主義|ショーペンハウアー【君のための哲学#19】

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☆ちょっと長い前書き
将来的に『君のための哲学(仮題)』という本を書く予定です。
数ある哲学の中から「生きるためのヒントになるような要素」だけを思い切って抜き出し、万人にわかるような形で情報をまとめたような内容を想定しています。本シリーズではその本の草稿的な内容を公開します。これによって、継続的な執筆モチベーションが生まれるのと、皆様からの生のご意見をいただけることを期待しています。見切り発車なので、穏やかな目で見守りつつ、何かご意見があればコメントなどでご遠慮なく連絡ください!
*選定する哲学者の時代は順不同です。
*普段の発信よりも意識していろんな部分を端折ります。あらかじめご了承ください。



意志


アルトゥール・ショーペンハウアー(1788年-1860年)はドイツの哲学者である。彼が生きた時代の哲学はヘーゲルに支配されていた。ヘーゲルが提示した「進歩し続ける世界」は当時の人々に広く受け入れられ「人間には運命的な使命がある」という希望と共に西洋社会を席巻していたのだ。ショーペンハウアーは、そんな風潮に待ったをかける。
彼の幼少期は大変に恵まれたものだった。裕福な家庭に生まれ、親の愛にも事欠かなかった。10代前半。彼は家族と共に何度もヨーロッパを周遊する。上流階級との交流と同時に、そこで彼は路上の物売りや民衆の窮困や絞首刑の現場を見る。社会全体で見れば歴史はよい方向に発展しているように解釈できるが、その末端まで目を凝らせば、そこには依然として苦しい生活が存在している。ヘーゲルのいう「世界の目的」は綺麗事なのではないか。ショーペンハウアーは、ヘーゲルが重視した「理性」ではなく、人間の根本的な性質である「欲望」に着目して世界を捉え直した。
彼は最初、ドイツ観念論の代表的論者であるシェリングに傾倒した。その後、プラトンやカントを研究し、これまたドイツ観念論者のフィヒテに師事してさまざまな思想を発表する。彼は自分自身のことを「カント直系の哲学者」だと表現する。
とはいえ、彼の思想はカントのそれとは少し違う。彼は世界を「表象」だと見做した。世界は「私」が見ている映画のようなものである。仮に世界が「私が見ている映画」だとすると、私は世界を全て認識することができているが(認識しているものが全てとも表現できる)当の「映画を見ている私の経験自身」を認識することはできないことがわかる。つまり、主観は決して客観とはなり得ない。
しかし、唯一の例外として主観と客観が混じり合う存在がある。それが「身体」だ。
身体は客観として観察される存在でもあるし、内側から観察される感情や欲望の入れ物でもある。身体だけは主観と客観両方で観察が可能なのである。
彼は「身体」を媒介として内側から捉えられる主観的な力を「意志」と呼んだ。食べたいという意志(欲望)は口に現れるし、生きたいという意志(欲望)は心臓に現れる。
人間の欲望が顕在化したもの、それが身体なのだ。(動物や植物や無機物に関しても、それらはある意志の顕在化であると捉えられる)


君のための「厭世主義」


彼が想定する意志は、欲望がむき出しになった盲目的な意志である。そこには理性が欠けている。強烈な意志は「あれが欲しい、これが欲しい」と常に欲望をむき出しにしている。
欲望の総合体である人間においても「欲しい」が尽きることはない。意志は絶えることのない永続的な力であるから、この欲望が満たされることは絶対にない。何かを手に入れたとき、そこにあるのは満足ではなく「次の欲しい」である。
私たちの社会において「無限の欲しい」を追求し続けることは物理的に不可能である。だから、人間は必ず欲望を満たせない状態、あるいは欲望を抑圧した状態に置かれる。これは端的に苦痛である。
ショーペンハウアーは、このようなロジックを以て「生は必ず苦である」と主張した。人生が苦痛に塗れているのは人間のせいではない。世界がそういうふうにできているからだ。世界における「得られるモノ」は有限なのに、人間が求める「欲しいモノ」は無限だから、世界には必ず奪い合いが存在してしまう。それに対して彼は「人間が絶滅することが有力な解決策である」とまでいう。
とはいえ、根本的苦からの脱却の方法は絶滅だけではない。多少後ろ向きな方法ではあるが「あきらめ」という方法を彼は提示する。
人生に対して苦を感じているのは自分だけではない。他者もまた、自分と同じ苦しみを抱えている。他者の主観を経験することはできないけれど、自然の摂理として“それはそう”なのである。
だから、他者に対して同情の心(同苦)を持ち、苦しみの根本原因である「意志」を捨て去ってしまおう。これはまさに仏教における「諦念」の境地である。
執着を捨て去り、実現しない望みに固執せず、生をそのまま受け入れ、ただただ生きていく。
非常に難しいアプローチでもあり、とても悲観的な方法論でもある。しかし、ショーペンハウアーの主張には綺麗事がないため、その分説得力が感じられるのは私だけだろうか。




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