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老いるってなんだろ

半世紀を超える時間を生きてきて、考える。

「老いる」ってなんだろうか。

お兄さんとは呼ばれなくなってきた。
おじさんと呼ばれることが多くなってきた。
おじいさんとはまだ呼ばれない。

知り合いが還暦を迎えた。
たまに呑む相手が。

結婚式にはもう呼ばれることがない気がする。
お葬式や通夜が年に何回かある。

そんな周囲や社会から「老い」を感じさせられることが増えてきたように思う。

老眼が進み、本が読みづらくなってきた。
髪の毛が少なくなったような気がしたり、しみとかしわとかが増えてきたと言われるけれど、特に機能性に関係がないので気にならない。
肉体的に老いを感じるのはそのくらいかもしれない。

子どもの頃から「運動」は「カロリー」の無駄だと思ってきたぼくは、ものすごく体力のない子だった。ついでに身体もかたい。

30代で世界一高い場所。半分宇宙の光景。自分の足でいける宇宙。
エベレストに登りたくなって登山やマラソンを始めた。

ハセツネっていう、71.5㎞の山道を24時間以内に完走するっていうレースがあって、それが達成出来たらエベレストに登れる体力があるって伝説があったレースに出た頃は子どもの頃よりめっちゃ体力があったに違いない。

そこで膝を壊し、うつ病を抱えるぼくは、今は行商になってチキチキ5(リアカー)で毎日のように街をうろうろしているけれど、子どもの頃より体力はあるに違いない。

運動をするようになって、ハセツネで膝を壊してからはストレッチが日課になった。結果子どもの頃よりは身体が柔らかくなったに違いない。といってもかたいけれど。

お酒は自分の適量を知りつつも、よく寝落ちしていたずら書きをされる程度に嗜んでいる?

シフォンケーキ屋でシフォンケーキの行商に飽き足らず、シェアカフェを作ってしまったり、自動販売機コーナーを作ったり、上映会をやったり、を出版したり。

サラリーマンだった頃よりなにかを生み出している感覚は多いように思う。
もちろん子どもと呼ばれていた頃よりも。

最近、また哲学書や文化人類学、経済に興味が出てきたみたいでそんな本を読みあさっている。忙しいから量を読めないけれど、久しぶりの読書週間が続いている。

ぼくの生きている時間軸が誕生から死に向かっていく一直線のものであるなら。
その時間軸は成長と老いの連続と死に終着するものであるのならば、ぼくも、たぶん老いているんだろう。昨日よりも、去年よりも。


でも、定年という「もう十分働いたから、明日からは老後を満喫してね?」的な誰かが勝手に決めた区切りのない自営業のぼくには最初に書いたような社会現象以外で老いを感じるのは「老眼」くらいなものだ。

老眼鏡をかければそれで解決できるようなものくらいだ。

若い時よりも体力があり、たくさんの経験を積んできたぼくは、むしろ成熟を感じている。
同時に外の世界に、まだ時間があるなら学びたいことや体験したいことや実現したいことがいくつか転がっている。

その中の1つをクリアすると、また1つ生まれてくるようにそれらは増えていくように思うし、なくなることはないのではなかろうか?

そのうち、体力も衰え、歩きづらくなっていくんだろう。
でも、ぼくは30代の数年をうつ病になり寝たきりで過ごした。
ベットから起きられなくなることは「老い」ではなく「病気」によって既にもたらされた。

人生というものにおいて、誕生⇒老い⇒死という一直線の時間軸で思考することの無意味さをぼくは知っている。

誕生してからいろんな体験と学びがあり、病気や体の経年劣化によりできることやできないことがそれぞれ増減しながら、紆余曲折をへて、ある日死ぬんだろ。

身体の経年劣化を「老い」というならそれでもいいけれど、たぶんぼくはこれからも今まで通り、イロンナ体験をし、学び、感情の浮き沈みを経験しながら、病気や「老い」で経年劣化したり、運動やらで復活させる体力とともに、なんとなく過ぎていく時間の中で生きていくのだと思う。

老いなんていう肉体の経年劣化以外には定義のしようのない現象。
病気と何が違うんだろ?
っていう程度の。そんなものに。

社会から一直線時間軸と共に押し付けられるこの勝手なイメージ。
ちょっとどうでもいいかな。今のところは。
たまに気になって横目で眺めるくらいの存在なんだろ。

ぼくは意識ある今をなんとなく生きていく毎日と。
それが積み重なってぼくの中に蓄積されていく歴史と。
まったく一直線ではないグニャグニャと曲がりくねった感じがする時間と共にあるのがイイナと思う。

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