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今となっては

 日課となっている散歩をしていたら、前から小学校低学年の子供と母親がこちらに向かって歩いてくる。特に意味はなく、何となくその子をぼやっと見ていたようだった。なぜ、そう思ったかと言えば、母親が子供に向かって、マスクをしなさいってさっきから言っているじゃない!と軽く叱ったからだった。もちろん、咎める気持ちも僕には無かったのだが、きっと視線がそう映ったのだろう。するとすれ違う瞬間に子供がこう言い放った。「マスクから鼻がでているんだったら、つけてないのも一緒だよぉ」と。子供が僕を意識して言ったかは不明だが、その声が確実に僕に届き、そうとさとった母親はその言葉で致命傷を負ったに違いなかった。

 人が一定数いる場所でマスクを着用することは、今となってはマナーやルールと言っても良いでしょう。屋外であっても、人と人の距離を自分でコントロールできないような環境下では、マスクをつけるべきだし、着けていない人がいれば咎められた視線を向けられても、それは仕方がないと考えます。ただし屋外で移動や運動をしている状態でのマスクの着用は、呼吸が苦しくなり心拍に負荷がかかるため、自己判断で外すべきだと考える。ただしその際は、完全に顔から外すべきである。鼻を露出しただけの状態や顎マスクをチョイチョイ見かけるけど、それはつけてないよりも悪い状態である認識を持った方が良いでしょうね。何が悪いか分からず意識しないでいる人が大半ですが、稀に明らかに意識して顎マスクをしている勘違いな人もいるので、それは止めるべきでしょう。今は半年前とは違う世界なのだから。

 と言うのは話の枕で先ほど、8年前に瀧本さんという方が、東大で講演をやったYuoTubeの動画を拝聴した。たまたま、YouTubeを立ち上げた時に目に飛び込んできたのでクリックした。1本の映画を観る程度の時間を要してしまったが、飽きることなく最後まで集中して聴くことができた。最後に感想をnoteに書こう!とあったのでここに、こぉやって綴っている。それは非常に熱の篭った、聴講生に対して愛のある講義だった。

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 何故、彼は今日(2020.06.30)の約束を果たせなかったのだろうか。きっと先ほど視聴したあるいは当時あの講堂で聴講した人たちは、そう思ったことだろう。彼は、日本に未来がなければNZの山奥に引っ込んでいるかもしれないと言っていた。それをそのまま引用すれば、地球(世界)に未来が見出せなければ、この世にいないかもしれないと言うことであろう。しかし、それは彼の限界であって私たちの未来ではない。彼は講演の中で高齢化社会の構造を1:2と表現していた。それを2:1に変えれば世の中の決定事項は変化すると言っていた。1側の若者1人が2側の年寄り1人を説得すれば構造は逆転する。そして説得するデバイスは存在しているし、そのツールを使えば、追い先短い短絡的な思考に陥っている人たちが、未来のある若者の世界に関心を持ってくれる可能性がある。若い人たちは、あなたたち(大人)が勝手に散らかした世界を私たちの責任にしないで欲しいと言う思いがある。それは、20年以上も前から主張していることだ。しかし、その論法で先にあげた短絡的な人がこの物事に対して関心を示すだろうか。どうすれば良いかは、この講義の中に沢山のヒントがあった。それを使ってあなたたちが大人と呼ぶ人たちを説得すれば良いことである。そのような観点から、この講演は彼が今の世の中に向けた遺言であると感じた。

追伸:もし彼が生きていて、今日の日を迎えるとしたら、無聴講生でZoomでやったのかな?東大の講堂から。

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