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村に笛吹き男が現れ、そして子どもたちはいなくなった

私は窓から振り返った。「で、子どもたちは無事アメリカへ?」
「行きましたとも」老人はうなづいた。

 物語のエンディングの一節だ。もちろん、ハッピーエンドだよ。

 第二次世界大戦開戦直後のヨーロッパ戦線を題材にした小説だけど、ヒーローストーリーではない。   ドイツ軍に占領されたフランス・スイス国境の町からイギリスを目指す、いわゆるロードストーリーだ。過剰な戦闘描写や宗教的な虚飾もなく、老人と子どもたちの逃避行が淡々と描かれる。

 ハリウッドの脚色だと過激なシーンがプロットされ、勝ち組のヒロイックな描写で構成されるだろうけどね。この小説はあくまで冷静沈着、知的でヒューマンな物語だ。

 過去に紹介した『渚にて』もそうだったけど、物語には正義の主張も悪意の強調もない。起きてしまった戦争という、避けられない状況に置かれた「個人」の行動を淡々と描写する。
 そこには、自らの役割を冷静に受け入れるという世界観がある。
 まるでカズオイシグロのような世界観だ。ディケンズなんかもそうだけど、英国作家の特徴なんだろうか? もっとも、それほど多くの作品を読んだわけではないけどね。

 この物語は、「ヒトは愚かな生きものだが救うことはできる」…そんなことを言いたかったのだと思う。

 物語の終末で、ニコルが逃避行に伴った子どもたちひとりひとりの未来像を語る。
「…ロニはきっとエンジニア、マリヤンは軍人、ヴィレムは弁護士かお医者さん、ローズはいい母親、シーラは職業婦人、ピエールは芸術家…」子どもの成長はヒトの未来そのもの。

 子どもという「未来」への期待、年老いたものが為すべきことは、その未来を守ること、それがヒトとしての、せめてもの矜持なのだ。
 この物語をひと言で語るとすれば、そのようなことになるんじゃないかなと思う。

 物語はハッピーエンドで幕を閉じるけど、それは、強力なチカラで状況を打開するとか、祈りや赦しという「神の御業」によって訪れる恣意的なハッピーエンドではない。
 そんな、ハリウッド的な…「福音派的」と言えばいいかな…世界観はどこにもない。

 著者は、戦争を引き起こした憎むべき敵としてドイツを捉えていたはずだけど、物語の中にドイツを悪者に仕立て敗者へと導く「勧善懲悪」などという陳腐な描写は見当たらない。
 旅路の最後で、老人はナチスのSSの将校の娘を救う。それを「綺麗ごと」だと言ってしまえばそれまでだけど、子どもに罪はないという主張だと解すべきだろう。
 いや、それどころか、物語は個人に罪を求めない。

 物語そのものが戦争という「国家権力の暴力」に対する批判になっている…それは間違いないだろう。戦争を題材にした物語の多くは国家の意義や兵士のヒロイズムを描くが、この物語はむしろそれを否定している。

 その意味では、野坂昭如の『火垂るの墓』と通じるものがある。『火垂るの墓』はあまりにも切ない悲劇だったけど、戦争がもたらす救いのない悲劇は戦場にあるのではなく、戦闘に直接関与しない人びとの人生にあるということを、ふたりの子どもの姿を通して描いた。

「奥さん。息子は死にました。飛行機が撃墜されましてね。ヘルゴランド島の上空でした

 この物語も、自分の息子の戦死、市民の無意味な死、子どもたちの被災、死の直前を共有したスパイの処刑…それらは悪意によって為されるのではない。それらはすべて、戦争が必然的にもたらす結果だと語る。まるで諭すように。
 ヒトという傲慢な生きものがもたらす破壊と死。その犠牲の多くを、本来そうなるべきではない非戦闘員、そして子どもが負うという現実。

 あってはならないことだけど、それが戦争の現実だ。

 戦争に英雄などいない。恐怖と憎しみ、報復と残虐行為、そして無関係な者たちの死…意味のない死があるだけだ
 どのような理由を掲げても、どのようなカタチに脚色しても、戦争にそれ以外の真実はない。

 いま、ボクたちはそんな極限にいるわけではない。にもかかわらず、被災する人びとを救うどころか何もできないでいる。
 戦場に赴き、銃を手に取るのか? それで戦争を終わらせることができるならそうしよう。でも、ボクやあなたが行っても、死体がふたつ増えるだけだ。

 核による滅びへの抵抗が、ささやかや寄付でしかないことが…、虚しいよ。

………【紹介書籍】
『パイド・パイパー』(ネビル・シュート/池 央耿 訳/創元推理文庫/2002年)


#冒険小説  #老人と子ども #ブックレビュー #ヒューマニズム #モノローグ

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