夏の終わりに口遊む、目眩と蜉蝣の唄

 Vtuberをやっています、テトランパトルです。

 2020年の8月も終わりに近づくにつれ、Twitterのタイムラインが同業者の引退をぽつぽつと告げるようになってきました。季節の終わりは、一種の節目だからでしょうか。何かを始める人も居れば、何かを終わらせる人も居る。節目といったところで、結局は人間の決めた勝手な暦の適当な一日に過ぎない訳ですけれど、不思議なことに、我々はそうしたものに特別な意味や値打ちを見出してしまう。本当に、不可思議なことです。

 誰もが特別な何かになりたい訳ではないと、そうおっしゃる方が居ました。Vtuberというのはエンターテイメントの一端を担うものであるから、伸びなければダメだ。人目に触れて、人々の心を掴み、上へ上へと伸びていかなければ意味がない。そうした論調への反論であったように記憶しています。誰もが、上を目指す、特別な存在として在りたい訳ではない。そう在ることを前提としなければ生きてはいられないなど、周囲の勝手な決めつけだ。そういった論調であったように、記憶しています。

 人の価値観は多種多様です。何を目指すか、何を望むか、何が決断を促すのか。それらは人と、その人を取り巻く環境によって変わります。当たり前のことです。だから、人の価値観によって進退が決せられる以上、万人に当てはまる引退のタイミングなど存在しないこともまた、当然のことなのです。そして、多種多様な価値観が存在するが故に、他者が引退する理由を理解できないことが起こり得るというのも、また当たり前にあることなのです。

 8月も末に迫ったとある日に、Twitterのあるアカウントが全ツイートを削除しました。bioには別れを暗示する言葉が綴られており、おそらくはもはや会うことはかなわないのだろうと。そう思わせられました。
 僕にとって、その日は特別な何かを示す一日ではありませんでした。何か重大な出来事があった日でもなく、なぜその方が去ることを決意されたのか、推し量ることはできても正しく理解することはできません。
 しかし、その日はその方にとっては特別な何かがある、そんな一日だったのでしょう。節目として、自分自身への一つの区切りをつけるに値する、そんな一日だったのでしょう。


 別れの寂しさを杭にして、僕の胸にも今日という日を刻み付けようと思います。このnoteがあなたへ届かなくても、僕の心に留まるように。