これが私のスタァライトよ…◎ロンド*3◎覚書き◎

 映画「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」を2週遅れで見てきました。感想や考察みたいなものをしたいんですが、文章がまとまらなさそうなのでとりあえず今考えたことなどを書き殴ります。

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*ここから先は多くのネタバレを含みます。自己責任でご覧ください。*










前提

 公開延期の影響もあり、私の地元でも8月7日には上映がなされていなかった本作ですが、ありがたいことに追加上映により2週遅れではありますが、見に行くことが叶いました。ありがとう配給:ブシロード!
 とはいえ、正直当初は「近場で上映しないんじゃ、最悪見に行かなくてもいいかな…」くらいのモチベの低さだったため、ネタバレ回避策を怠っており、若干のネタバレを食らっていた状態でした。

◎◎◎知っていたこと◎◎◎
 どうやらハッピーエンドじゃない
 最後に絶望を植え付けられる
 考察が必要(アニメ本編とは異なったストーリー?)
 レヴュー曲が変更されてる(Star Divine →Star Diamond)
 血みどろ?


総集編ではなく「再生産」総集編

 「新規カット10分くらい」と聞いていたので、「9割方はアニメと一緒だろう。まぁ総集編だし…」とタカを括っていましたが、キネマシトラスがそんなありきたりな作品を作るワケがないんだよなと後で気づきました。この作品のテーマでもある「再演」という手法が見事に炸裂しました。
 これまで何度も何度も繰り返し見ているからこそ一層面白い。セリフを諳んじれるほど熱心に見てきたファンであればあるほど再演による違いが際立って発見できる。あるセリフの前後に一言追加されるだけで、或いはある言葉が削られるだけで印象がまったく違ってくるというのが「総集編」ではなく「再生産総集編」と銘打っただけのことはあるなぁという感じです。(まぁ個人的には復習がたりなかったなぁという状態でしたので、つぶさに「ここが違う」という指摘はできないんですが、)でも、その「再生産」があんなことになるなんて…

 個人的になんか意図があるんじゃないかな?と引っかかってるのが、絆のレヴュー(華恋vsなな)のレヴュー曲で本編では華恋パートだった「繋がったの星の絆 いつまでも守るよ」が劇場版ではばななが歌っていたことですね。(まぁ理由はわからないんですが、)
 でも確かに華恋がばななに向けて歌うと「聖翔音楽学園で出会った舞台少女たちの友情はいつまでも続くよ」みたいな意味に聞こえるけど、ばななが歌うと「”再演”によっていつまでもみんなを絶望から守る」という風に聞こえてゾクッとしますね。


よかったところ

①展開が早い
 これは「スタァライトを舞台から知った」という事情も込みでの私の個人的な意見ですが、アニメ本編は原作舞台に比べるととにかく冗長に感じられてしまいます。それが地上波アニメのよさでもあるのですが、日常パートのみならずレヴューシーンに至ってもちょっとダルな…とずっと感じていました。本編12話を通してレヴューの場面がある回を含めても全体的に氷が溶けて薄まったカルピスみたいな倦怠感が漂っているのがもったいないと思っていたので、今回の劇場版の展開はスゴクよかったです。
 冒頭の真紅に染まる「アタシ再生産」の変身バンクから始まり、エヴァンゲリオンやシン・ゴジラを彷彿とさせる明朝体の説明字幕、戯曲『スタァライト』は小出しにせず「去年の聖翔祭」として一気に見せる等、もはや状況説明は省くけど、可能な限り情報は挿入するというスタイリッシュに刷新するぞという姿勢が感じられました。また学校のレッスンパートや寮生活等の日常描写を全カットしてレヴューシーンで全部繋げていくのは、原作舞台の途切れることのない目まぐるしいい展開のようで非常によかったと思います。
 特に印象に残ったのが、2戦目が誇りのレヴューだった瞬間、「純那戦は時間の都合でカットか?」と思わせておいてのThe Star Knowsのイントロからの「アタシ再生産(水色ver.)」に純那の顔アップのカットがめちゃめちゃカッコよくて好きです。

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 その後も本来なら華恋の変身バンクを繰り返し見せられていた部分(これも本編ではダルい要素だった)で対戦者のアタシ再生産カットが挿入されていて、「あっ、やっぱりみんなアタシ再生産してたんじゃん!」とわかって興奮しました。


②テンポがいい
 幾原邦彦を思わせる印象的なカットの繰り返し(純那がストローをちゅっぱっとするやつとか)、嫉妬のレヴュー直前のまひるの「うひゃー!」3連発、「ポジション・ゼロ!」から間髪入れずに次のレヴュー曲のイントロが流れ、アタシ再生産(新規カット)する流れはストーリーを知っている観客としてもとても心地よい体験でした。
 ただ、かなりの時間をカットしたために本編では効果的だった演出が薄れた場面もあり、仕方ないとはいえそこは残念でした。例えば、印象的なアイテムとなっていた「ひかりのクラゲのぬいぐるみ(4話)をひかり失踪後に大切に整理するまひる」とか「バールのようなもの(3話でひかりが使う)で地下劇場への扉を開く華恋」とか。

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このクラゲのぬいぐるみをゲットするためにひかりはお金をスッて、門限までに帰れなくなったのだった。

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ひかりは華恋をオーディションに参加させないために、華恋はひかりを見つけ出すためにバールを振るうという…


③「オーデション」の定義がなされた
 これは舞台♯1から登場してこれまでずっと使われてきた言葉でしたが、実際には最初期から徐々に意味ブレしていたように思っていました。しかし今回の劇場版でわかりやすく説明があり、スタァライト全編を通しての疑問が解消されました。
 
 舞台♯1時点では、
①舞台少女はトップスタァを目指す生き物
②オーディションで負ければキラめきを奪われる。勝つとキラめきを奪える
③全員分のキラめきを集めればトップスタァになれる(だから戦う)
という感じでしたし、実際にバトルロイヤル的な勝ち残り戦(負けたら終わり)だったのでわかりやすかったのですが、アニメでは、レヴューで負けても即終わりという訳ではなく(番付表の順位が下がる)、最終的な順位が2位以下だと1位の者にキラめきを奪われるという感じでした。(なのでアニメ本編では、「上掛けを落とされる」という本来は「キラめきを奪われた証」であったはずの演出が何度となく登場し、次のレヴューでは何事もなかったかのように上掛けが復活していました。)
 劇場版では、「オーディション」は(運命の)舞台に立つ者(合格者)を決めるためのものである。だからオーディションの中で負けても、舞台少女は何度でもオーディションの舞台に立てるし、また立たなければならない(正確な文言が覚えきれなかったので曖昧で申し訳ない)という風に微妙に表現が改められました。(2話で純那が「一度負けたら終わりかと思ってた」的なことを言うのとも合致する)以上まとめると、

①「オーディション」に合格すると「星のティアラ」を得、「運命の舞台」に立てる
②運命の舞台では自分の望みが叶う。どんなことでも
③オーディションで負けた場合、舞台少女として一番大切なもの(キラめき)を失う
④舞台少女のキラめきが運命の舞台の燃料


※ここからは私見ですが、
⑤キラめきを奪われるタイミングは、オーディションが終わった後
⑥合格者の「運命の舞台」の内容によっては、他の参加者のキラめきが奪われない


a 大場ななの場合:第99回聖翔祭のスタァライトまで日々の再演
 ななの運命の舞台が、なな達が1年生の4月(担任の先生が「演目はスタァライト」と告げる場面)から始まり、第99回聖翔祭を経て、2年生の5月に行われるキリンのオーディションで必ずばななが勝利する→新たな運命の舞台で「再演」を繰り返すという流れになっている。

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 ばななの望みが「過去をやり直すこと」なので、オーディション終了後に他の参加者のキラめきが奪われているとしても、彼女たちのキラめきを燃焼させ、時間を戻している(彼女たちにキラめきが残っている頃まで戻っている)ため、外観上は他のオーディション参加者のキラめきが奪われているように見えない。

b 神楽ひかりの場合:「これが私のスタァライトよ」
 参加者のキラめきも奪わないで済むよう「自分が他の参加者の負担すべきキラめきの肩代わりをする」というもの。舞台があの砂漠のような世界で賽の河原を模したようなことを繰り返していたことから、一度キラめきを奪われたひかりにはキラめきの絶対量が小さすぎて、おそらく”運命の舞台を実現するのに必要とされる分のキラめき”を返済し終えるには永遠に等しい時間がかかると思われる。


よくわからなかったところ

①ばななの「待ってたよ」誰を?なんで?どこで?
 多分ですが、「ひかり」をだと思うんですが、ひかりというか自分以外に「オーディションに合格し、運命の舞台に立った誰か」を待っていたのではないかと思います。だからひかりかもしれないし、ひかりと華恋なのかもしれません。またあの空間がどこなのかもよくわかりません。キリンの主催するオーディションの模様を俯瞰的に認識できるというのが単なる「回想」なのか、観客や主催者側の「見る者」としての視点なのか、わかりそうでよくわかりません。


②キリンの「本番5分前です」
 ひかり戦の前だったと思いますが、新規のセリフということもあり、タイミング的にも「何の本番?」という疑問が生じます。本番前ということは、今キリンと話しているのは「舞台裏」ということになり、では大場ななにとっての「本番」とは?ということになるのですが、これもわかりません。考えられるのは、
・未知の相手(ひかり)とのレヴューを指す(=まだ勝負の結果がわからないという意味での「本番」)
・運命の舞台(=「オーディション」ではなく観客に見られる「舞台」という意味での「本番」)
・まったく別の意味(「7」でななが制服ではなくレヴュー服を着ていることから)


③ロンド・ロンド・ロンド
 マジなんなの?wikiで調べたところ「ロンド形式」というのがあって、「異なる旋律を挟みながら、同じ旋律(ロンド主題)を何度も繰り返す楽曲の形式」。広辞苑だと「輪舞曲(ロンド)」とは「主題が同じ調で繰り返される間に異なる楽想の副主題が挿入される」とのこと。
 では「主題」とは何なの?ということになりますが、私にはわかりません。割とよく見かけるのが、「ななの再演=99回聖翔祭では?」というもの。なるほどという感じです。(でも個人的にそうするとばななが物語の主人公になってしまうので疑問ではあります。)
 あと、「繰り返されている」という点から、「スタァライトというアニメそのもの」という説。確かに地上波アニメ版と劇場版で同じ主題を扱っているのにこんなにも違うことに衝撃を感じています。(個人的に聖翔音楽学園の生徒も戯曲『スタァライト』という同じ題材を3年間かけて繰り返し演じるという点では、ロンド・ロンド・ロンドですね。)


④「舞台少女の死」
 は?!?!急に死ぬなよ!!!????聞いてないぞ…


 ???


 ある程度覚悟はしていたんですが、あまりの衝撃に思考が停止しました。グロ…


 「死」?なんで?どゆこと…

 絞り出した考察ですが、「舞台少女」=舞台女優に憧れる少女、普通の女の子の幸せをすべて捨て去り、舞台の上で輝くことを選んだ少女たち。「舞台少女・愛城華恋は日々進化中」の一言に代表される「成長し、毎日進化(変化)していく存在」、舞台少女にとって一番大切なものは、舞台の上で演じる緊張感、高揚感、演じることは舞台少女の喜びであるわけで、こう考えると「舞台少女」が「死ぬ」とは、何通りか考えられますが、
1 舞台の上で演じる役者、俳優としての夢を諦める
2 少女(学生)としての成長や進化が終わる(役者として完成される)
なんじゃないかな~と思ったりします。どちらも文脈としては、あり得るし特に後者だと「オーディション」と「運命の舞台」の関係(オーディションに合格しなければ本番の舞台に立ち、観客の前で演じることはできない)とも整合性が取れる気がします。


⑤血みどろカットの正体
 若干トラウマですが、覚えているのは、
・剣で突き刺された上掛け(誰か倒れてる?)
・血みどろ星型のベニヤ板(舞台装置)の向こうで横たわる制服(?)姿の華恋らしき人
・大量のブーツ(レヴュー衣装)に血溜まり
・大量のポジション・ゼロによる模様
・星罪みの塔の階段に血を流して倒れる選抜組(華恋はいない?)


⑥新規場面(ラスト5分間)
 なんか色々言ってたようにも感じましたが、初見では血みどろのグロシーンで思考力が奪われており、なにも記憶にございません。ワイルドなんとか…?う~ん…

考えたことなど

①やっぱりアニメ本編自体もよくわかっていない
 そもそも最後の(12話相当)アンコールで立ち上がった華恋が「奪っていいよ 私の全部」で華恋はどうなったの?ひかりの言うように「そんなことしたら私の運命の舞台に捕らわれて華恋のキラめきまで奪われちゃう」んじゃあないの?
 これは12話の解釈になってしまうんですが、華恋が言うには、
・(舞台少女のキラめきは)舞台に立つ度に何度だって燃え上がって生まれ変わる
・舞台少女は舞台に生かされている
・「私にとって舞台はひかりちゃん」
よって、舞台少女・愛城華恋は(キラめきが奪われても、舞台少女が舞台に立つ度に何度だって生まれ変わるように)ひかりがいてくれれば、何度だってキラめきを再生産できるということなので、事実上、不死の状態。

 一方、ひかりは、一度キラめきを失った上で、華恋と二人で一緒にスタァになるという幼い日の約束(運命)によって首の皮一枚で「舞台に繋ぎ留めて」もらっている状態です。だから「あの約束」を「覚えている」ことによって、言ってみれば、HUNTER×HUNTERの「死者の残した念」みたいな感じで「死せる舞台少女」なのにも関わらず、キラめきを完全には失わないでいられるということです。舞台に立てる以上はキラめきを再生産できるのが舞台少女なので、ひかりもまた基本的に無敵状態みたいな存在です。

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冨樫義博『HUNTER×HUNTER』⑬(集英社)より

 似たような設定で『ジョジョの奇妙な冒険』の敵の能力で”死者の怨念のエネルギーによって本体の死後発動する自動追跡型スタンド”(ノトーリアス・B・I・G)というのが登場しましたが、こちらも個人的に「幼い日の約束によってかろうじて舞台に繋ぎ留められている」状態とズゴクよく似ていると思います。

 この二人はお互いの存在が己の舞台少女になった原点なので、相互にキラめきを再生産し続ける夢の永久機関のような関係であるため、本来は永遠に返済しきれないキラめきの代償を贖罪として背負続けるひかりの運命の舞台(一人であれば脱出不可能な場所)から新たな脱出口(結末の続き、「新章」)を見つけ出せる、というのがアニメ本編の終わり方だと考えておりました。

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ひかりの上掛けが落ちている=華恋がひかりのキラめきを奪った(小前提)
華恋はひかりの運命の舞台に飛び入り参加したので、ひかりの差し出すべきキラめきの肩代わりをしなければならない(大前提)
二人の繋いだ手が(運命の舞台の)ポジション・ゼロの位置にある=無限のキラめきを再生産できている→故に「塔」に幽閉されることはない(結論)

 が、本当にそうなのか不安になってきました。華恋もひかりも地下劇場から元の世界へ帰ってきているものとばかり思っていましたが、なんか劇場版でひかりがあの砂漠のような空間で「ありがとう華恋、私の運命の舞台までついてきてくれて」みたいなことを口走っていたような気がするのですが、どういうことなんでしょう?(終わってないの?なぜハッピーエンドを認めない!?わかりません)


②「血」=上掛けの赤色
 レヴュー衣装でひかりの上掛けだけ赤色ではなく青色、かつ左肩ではなく右肩にかけている理由は、8話で明かされたように「王立演劇学校でのオーディションで負けてキラめきを奪われたから」ですが、そもそもこの上掛けとは何なのかということですが、劇場版を経て改めて考えると、「舞台少女の血潮」というのが一番しっくりきます。左肩にかけるのも心臓を意味していると考えると納得がいきます。(単に「武器を右手で扱うから邪魔にならないように」という理由もあるでしょうが、)

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 こうしてみると、最後のグロシーンで飛び散っている血痕も星罪みの塔の階段に流れる大量の血も、視覚情報としての「血液」という訳ではなく、「舞台少女のキラめき」とか「夢破れた者の残滓」のようなものとも考えられて、そういった概念を表現したものなのかな~と思えてきます。

 ここで劇場版での差異として気になったのが、アニメ本編11話の冒頭でひかりが自らの剣を握りしめる→手から血が滴り落ちるという部分ありますが、これが劇場版ではカットされていたと思います。(違ってたらごめんなさい。)この描写をカットすることで、次の「血が上掛けの星型の留め金に付着する」という印象的な場面の意味が全然違って来るのでは?と考えています。

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 本編では、キリンの「運命の舞台には~大量の燃料が必要です」、「燃料は炉にくべられました」という言葉に対し、「いらない…燃料なんて必要ない」と他の参加者のキラめきを奪うことを拒否したひかりが「自らを傷つけて流した血」で青い上掛けの一部がほんの少しだけ赤く染まりましたが、劇場版では「誰のものかわからない血」がひかりの上掛けに付着するようにも見え、最後の血みどろの場面と相まって、めちゃくちゃ不穏に感じられます。(誰かを犠牲にしたのか?とか)

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③ばななのスカートから出てきた星の留め金
 先程の「上掛け」=キラめき、上掛けの「赤色」=舞台少女の血という理解を前提とすると、上掛けを留める金具は、舞台少女のキラめき=舞台少女の生命(心臓)という理解でよろしいかと思います。だから運命のレヴュー「スタァライト」で華恋の砕かれた星型の留め金が再生し、「アタシ再生産」!するのでしょう。
 じゃあ、ばななのスカートから落ちた留め金は何個?(確認できなかったけど8個くらいじゃなかったか?)オーディションに勝って「奪う」まではわかるけど、スカートを広げて床に落とすのはどういう意味?わかりません。

④作中における戯曲『スタァライト』について
 舞台版の『スタァライト』は、
・「空に輝く星たちを集めれば二人で幸せになれる」(二人は1年に一度しか会えない)
・フローラとクレールは「矛盾を超えた友情で結ばれ」ている
・この世界で星を掴めるのは塔の頂上だけ
・塔に登ることは掟で禁じられている
・クレールは星たちの重みで崩れた塔に幽閉されてしまう

一方アニメ版(劇場版)では、若干細部が異なっていて、
・フローラとクレールには「来年もまたここで会おう」という約束がある
・1年後再会時にはクレールの記憶がなくなっている(理由不明、約束は覚えている?)
・塔に登って星を手に入れることができれば願い事が叶う(「永遠の願いを手に入れる」)
・永遠の願いを手に入れるには何かを差し出さねばならない
・フローラはクレールの記憶を取り戻すために塔に登ろうとする
・禁忌とされているのは、星を摘むこと(星罪)で塔に登ることではない?
・塔の女神たちは、罪を犯して塔に幽閉されている
・クレール「二人の夢は叶わないのよ」

 両者に矛盾がないとしてこれらの差異を整合的に解釈すると、なんだかクレールにはフローラには伝えていない本心、別の目的のようなものがあって、二人が塔に登る目的は、実は一致していないのではないかと思えてきもしますね。アニメ版のクレールは「フローラ(=最も大切な友人)を差し出して自分の願いを叶えたようにも見えなくはないし…

⑤「届かなくて、眩しい」
 スタァライトという作品の世界観における特定の言葉には、辞書的な意味以上の含みが与えられていると思います。
 例えば、「スタァ」や「星」は、決して手の届かない場所で輝くものの象徴。星は私達を照らしてくれるものであり、私達が見上げると美しく輝いていて眩しい存在、つまり舞台に魅せられた少女たちにとって舞台の上で活躍する舞台俳優という存在は紛れもなく「星」のような存在であり、それと同時に舞台に憧れる舞台少女たちもまた星の輝き(キラめき)を宿した存在なのです。ただ「星」の中にも恒星のように自ら燃焼して光を発するものと、他の星の輝きを反射しているだけのものがあります。かつてトップスタァだった走駝先生が「星の輝きに頼るなんて情けないわね。スタァになりたいのなら自らを輝かせなさい。想いだけじゃ”届かない”」という意味深長な言葉もありましたね。
 これを踏まえると、やはり「レヴューで相手に負けるとキラめきを奪われる」というのは、それがオーディションのルールというより、もっと根源的な「舞台の上で誰よりも輝いていた者が見る者の注目を得、記憶に焼き付き、舞台が終わっても称賛受け続ける(観客のみならず同じ舞台の共演者さえも目を奪われてしまう)」ということを指して「レヴューで勝った者がすべてのキラめきを得る」と象徴的に表現しているのだろうと理解できます。(個人的に一番わかりやすいのが双葉が香子に負ける直前、かつて自分が香子の「ファン1号」になった時に見たであろう舞踊を想起してしまう場面だと思います。)

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「目を奪われる」、「心を奪われる」という表現にも通じます。

「塔」=この世界で星(願い)に手が届く唯一の場所。また、罪人となった女神たちが幽閉される場所。これはすなわち、「キリン」や「キリンのオーディション」そのものではないでしょうか?もしくは舞台女優になる夢を叶えることができるかもしれない「聖翔音楽学園」(走駝先生が舞台に立つことをやめ、学園で教育者になっている)とか色々考えられるかと思います。


⑥戯曲『スタァライト』とのアナロジー
 フローラ=禁忌を犯して光(ひかり)を奪われる者=愛城華恋
 この認識で間違いないと思います。(違ったら「じゃあ一体何なんだよ!」って感じですが、)フローラは、華恋が演じることを夢見る役ですが、華恋そのものでもあるはずで、実際アニメでも、呼ばれてもいないオーディションに飛び入り参加し、規則を破って自分の望むものを手に入れようとするのが愛城華恋の役目です。さらにフローラは、塔の頂上で「星々の輝きに目を焼かれ」、「塔から落ち」、「光を失」いますが、もしかすると今後、華恋が何者かの強烈なキラめきによって舞台少女としての自らの魅力、自信を失って、舞台少女としての夢を諦めたり、学園を去ったりして(これが「舞台少女の死」?)、ついにはひかりと離れてしまう(『スタァライト』は悲劇、結末は別れと決まっている)ことを暗示しているのかなぁとか思ってしまいます。

 クレール=大切なものを失って、塔に幽閉される者=神楽ひかり
 アニメ版や劇場版では、クレールは「フローラの記憶」を失っていましたが、一番の親友の記憶、思い出=一番大切なものという理解でいいでしょう。アニメでは「舞台少女としてのキラめき」を失って、その後学園の地下劇場に閉じ込められていたので、やはりスタァライトという作品自体が『スタァライト』の物語をなぞっているような構成になっています。

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 また舞台版では、かつて華恋とひかりが見た「The Starlight」の舞台でクレールを演じていた走駝紗羽が聖翔音楽学園に(閉じ込められて?)おり、何故かキリンに従っているように見えます。

 これは私見ですが、アニメ&劇場版のクレールが記憶(大切なもの)を失っている理由が明示されていないのが気になっていて、おそらく「神楽ひかり=クレール」であるならば、クレールもまた大切なものを失う前に「星のティアラ」(オーディション合格者の戦利品)に相当するもの、例えば自分の願いを叶えているとか、何らかの恩恵(それはフローラには伝えれることはない何か)を受けているのではないかと思います。(舞台♯1では、塔は「星たちの重みで崩れる」というのも、え~、つまり、どういうことなんでしょう?)


⑦愛城華恋という主人公
 劇場版を見て、改めて「やっぱスタァライトいいなぁ」と感じたポイントなのですが、この作品を通じて一貫して華恋は「自分のために行動している」ということです。主人公なのに善とか正義のためには行動していないのが最高に狂っていて大好きです。
 漠然と「華恋=いい子」のように感じますが、具体的な行動はかなり利己的で、例えばひかりを助けるために純那とのレヴューに加勢したり(純那もまた同じ夢を見る舞台少女であるから公正な戦いをさせるべきという発想はありません。舞台版ではさらに倫理観がズレている。)一度タガが外れると他者を排斥することに対する躊躇が消えたりするところが「主人公っぽいな」と感じています。(この点においては、ばななやひかりの方がよっぽど仲間想いだし、利他的な動機で行動しています。)
 舞台少女は、青春とか普通の女の子としての幸せを焼き尽くして舞台でトップスタァになろうとする特別な人種であって、優しさとか正しさのような価値基準は持ち合わせておらず、どこまでも自分の夢のために、自分以外の者を犠牲にして突き進む(これこそがスタァの資質であって舞台少女の才能なのだ)というのが潔くて美しいなと思いました。

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 以上、なんだか全体的にめちゃくちゃでまとまりのない文章になりましたが、「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」の感想になります。アニメを見返してまた見に行きたいと思います。

 また、考察されている方は「ここが違うよ」などご指摘、ご意見等ありましたら、優しく教えていただけると幸いです。


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