子どもの頃出来なかった事
私は、子どもの頃友達が少なかった(今もだが)。
そのせいで色々寂しい思いをした。
だから自分の子どもに同じ思いをさせたくなくて、長女が2歳ぐらいのときは色んなところに連れて行ったりしたし「あっちでお友達が遊んでるから入れてもらおう」なんて促したりもした。
本人がそれを望んでいなかったことを知ったのは長女が5歳ぐらいのとき。集団で行動することが、長女にとって色々苦痛だったのに私は「私は寂しかったから」という理由で長女にそれをさせようとした。
要は、私自身のエゴの押し付けだったのだ。
それに気付いた私はそれまでの行動を凄く悔いた。
ちなみに今の長女は、自分のペースで仲良くしたい友達を作り程々に他者との交流をちゃんと楽しんでいる。
むしろ学校や放課後デイから聞く話からいくと、喧嘩の仲裁をしたりするなど、小さな頃の私が出来なかったことを出来ているのだ。
結局、同じ遺伝子を持っていても違う人間。
そして違う人生を生きて行くのだ。
だから自分が出来なくて苦労したからとそれを出来るようにさせなくてもいいのだと思う。
なんでこんな記事を突然書き出したかと言えば、夫が長女に「夏休みの宿題をやったのか」「やってないならやりなさい」と声掛けしていたからだ。
夫の幼少期の話を何度か聞いたけど、夫は「夏休みの宿題を最終日まで残して最終日に泣きながらやる」タイプの子どもだったらしい。
自分が出来ていなかったことを子どもにはやらせようとする。
さっき書いた通り、それはエゴでしかないと私は思う。
私はと言えば、夏休みの宿題は毎日コツコツ数ページずつ進めるタイプの子どもだった。最終日にやることは日記程度のもので、最終日に泣いたことなど一度もない。
でも私はムスメに「宿題をしなさいよ」とは言わない。
本人が「やりたい」と思って自発的に動いていない勉強には大した意味がないと思っているのが一番大きい。
私自身は勉強が大好きな子どもだったので、言われなくても勝手に宿題していたのだ。偉いとか偉くないとかではない。好きだからやってただけ。
「やりたい」と思ってやることでないと、身につくことはないと私は思っている。ただ惰性で漢字を書いたって何も覚えないし、面倒だなぁ、やりたくないなぁという勉強に対するネガティブな感情が育つだけだ。
ただ一方的に「やりなさいよ」と言われるだけでやる気になるならみんな宿題を溜め込むことはない。むしろただ一方的に命令されるのでは、もっとやりたくなくなると思う。
最終日まで宿題を溜め込んだ夫だって、毎年溜め込んでいたなら親はきっと何度も声掛けしたはずだ。でもやらなかったのだ。声掛けだけでは効果がないことは自分でわかっているはずなのに。
多分、幼い夫は「もうそろそろやろうと思ってたのに言われたからやる気なくしたァ」というテンプレな返しをしていたんじゃないかなんて勝手に思っている。言われるとやる気無くなるよね。
最終日に泣かないために本人に頑張らせる事は大事だと思う。
ただ、必要なのは「やりなさいよ」という声かけじゃなくて、本人がやりたくなるための仕組みづくりだ。
ちなみにムスメは宿題を全くやっていないのではなくて、数ページは進めている。少しでもやっている成果を見もしないで「やれ」とだけ言うのはとても一方的だなと思う。
「ずっと動画やアプリをやると良くないから、一時間見たら30分動画は休憩。その間やることがないなら宿題をやったらどうかな」と声掛けしたとき、彼女は進んでその時間に宿題をやっていた。
私はこうやって「どうしたら相手がやる気になるかなぁ」と相手の性格とかを踏まえた上で他者視点になろうとするクセがある。
それで動いてくれるときもあるし、動いてくれないときもある。
動いてくれないときはその想像している視点が間違っているんだと思う。
ただ「自分はこうだったから」という自分の記憶や性格だけで決めるより成功率はずっと高い。自分だったらやらないけど、この人だったらこのやり方が効くだろうとかいちいち考える。考えすぎるのでくどくもある。
この相手の立場に自分を置き換えて物事を考えることが自分の中ですごく当たり前なので、よく夫にも『今あなたが言ったみたいな言い方されたら、あなたはやる気出るのかい』と返すことがあるんだけど、大抵そういう事を言うと夫は怒る。
「自分が言われたわけじゃないから想像なんて出来ない」と言う。
そして「はいはい俺が悪いんですよ」とふてくされて話が終わってしまう。
「怒られてるみたいで嫌だ」と言われてしまう。
なにか人に言う時、その都度他者目線に立ってみるということは私自身が当たり前にやることなので、みんなやってると思ってたことだった。
だから「なんで出来ないのさ」と思ってしまう。
でも、全然当たり前じゃないんだろうなって最近思う。
このあたり自分視点が強かったと思う。
前に買って一度読んでたけど、昨日久々に読み返したこの本に、その答えが少しだけあった気がする。
私は左利きである。
実は書道家の家系なので、家庭で字に対してとても厳しい指導があった。
左手で字を書くのはご法度で、左で字を書くたびに手を叩かれたことを未だに覚えている。つらかった…。
日本人は9割が右利きらしい。
なので左利きは、全て逆の手を使う世界を生きていくことになる。
そうすると他者観察や、他者の真似、他者思考の想像などは日常の中でクセになってしまうらしい。
なので人間観察力が優れてるらしいですよ、左利きの人。
右手でみんながやってるあれを、左手でやろうとしたらどうなるか。
どうやったら上手く出来るようになるか。
そうやって観察したり、努力したりする下地が左利きであるだけで出来ているのだという。その分本来年相応に発達するところが発達出来ず苦労することもあるけれど、右利きでは育たない左利きの下地が生きてくるのは大人になってからだから、晩成型の人も多いとこの本には書いてある(そうだといいな)
とにかく、私のその「他者視点」みたいなものは、左利きであるゆえのもう生まれ持ったクセみたいなものかもしれない。
ただ、この本にも書いてたけど、10歳までは矯正しない方が脳のためなんだそうだ。自分は右手を使うのか、左手を使うのかを混乱した状態で脳が一番発達する時期を過ごしてしまうのは良くないのだとか。
私が中途半端に人の顔色ばかり見て察する割に変な発言で空気読めなくなるのは、その辺りの混乱もある脳だからかもしれないなと思ったりもした。
左利きの次女は、人の顔色を見たり、人の行動を見たりして行動する。
人の真似もうまいし、とにかく観察力の鋭さは日々感じる。
私は矯正でとても悲しい思いをしたので次女は一切矯正する気がないが、そのおかげかのびのびと観察力が育っている気がする。
右手を使えるようになっておくことに損はないので、本人が気にしだすようになったら練習はしてもいいと思ってるけど。今はいいかな。
『自分が子どものころ苦労したから同じ苦労はさせたくない』という意味では『左利きを矯正しない』というのもまた同じことではあるのだけど。
「嫌だったから」「嫌な思いをしないようやらせる」
「嫌だったから」「嫌だったことはさせない」
だと全然違うと思う。
だからね、やっぱり。
夫が「宿題しろ」って言われるのがこどものころ嫌だったなら…
言わずにやりたくなる方法を考える方がいいと私は思っているんですよね。
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