鞭と真綿のコラボレーション~親は誰もが毒親という話~

先日「"叱る"依存がとまらない」という本を読んだ。

その中で、叱られ続ける中で時折優しくされることが被害者側にとっては報酬になってしまい、いつか褒められるその日のために叱られる日々を受け入れてしまう現象について書かれていた。

トラウマティックボンディングと言うらしい。
(こちらの添付画像に読んだ本のメモをまとめています)

いつも怒られたりなじられたりしていても、時折優しくしてくれる。
時折認めてくれる。その瞬間がとても嬉しいから、それのために叱られることに耐え、いつか来る優しくされるその瞬間を待ちわびる。

叱る側は叱ることで誰かを支配する欲求を満たし、叱られる側はいつか褒められることを夢見て叱られることに耐える。
叱る依存と叱られる依存はこうやって生まれるらしい。ゾッとする。

ところで、突然だけれども私の持論として「親は誰もが毒親」だと思っている。毒の強さに差はあれど、私だって、いかにも理想的な育児をしていそうなあのひとだって、あからさまに子どもを殴ったりなじったりしているあのひとだって、誰もが毒親だと思う。

ちなみにどの親も「自分が毒親だ」などとは思っていない。
叱る依存が止まらない、の本にも書いてあったが、殴る蹴る罵倒するという明らかな暴力行為ですら「相手のため」という理由をつける人間心理について書かれている。

『毒を与えてなんていない。正しい世界を知らないこの子のために、正しさを伝えるために、相手のことを思って殴っている。別に殴りたいとは思っていない、相手が殴られるような行動をするのが悪い』と思っているのだ。

殴られる側は「殴る行為に至らせている加害者」であり、殴る側は「殴らざるを得なくなっている被害者」という思考に陥るらしい。

なので、常に親は親として、子どものために薬を与えている。

「親に与えられた毒を自覚し、自分にとって最適なものになるように解毒していく」ことは、私が思う人生におけるひとつのミッションだ。

ゲームっぽい表現をしてみると、親によって与える毒の属性は違っていて、大きく分けると

・恐怖の毒
・価値観の毒

の2種類があるように思っている。
恐怖の毒は、成長した子どもが「あれは毒だったんだ!」という自覚がしやすい。殴る、蹴る、罵倒するなど、一般的に「毒親」と呼ばれる人が表出させる行為。

価値観の毒は、毎日の食事に一滴ずつ垂らされる毒のようなもので自覚しづらい。そして、一見毒親ではない親の大半が持っているのがこちらの毒なのだと思う。

「薬も過ぎれば毒になる」ということわざがある。

『あなたのためを思って』という優しさに隠された価値観の押しつけ。これが、薬のように優しく染み込む毒。

教育虐待がこの毒を強めに垂らしている印象がある。
いい成績を、いい学校を、そしていい会社。いい結婚相手。
それを手に入れることこそが「あなたのため」なのだという親の価値観を子どもに押し付ける行為。
子どもは逆らう術もなく、親を信じ、あまり美味しくないと感じながらその毒を飲んで自分で考える力を見失っている、そんな印象。

私の親は父親が前者の毒を、母親が後者の毒を持っていた。
直接殴られるなどはなかったが、父が日々怒号や不機嫌を振りまく様は幼少期の私に十分すぎる恐怖を与えた。

その恐怖の隙に母親が優しく薬を与える。少量なら薬だった。
こわいお父さんに受けた傷を、お母さんの真綿のごときやさしさが癒やしてくれる。
毎日それを飲みすぎて、いつしかそれは毒に変わっていた。
私は恐怖の合間に、毒を薬だと信じてぐびぐび飲んだ。

薬は傷を癒やすものでもあり、身体に染み込み残る毒でもあった。

父が鞭を打ち、痛み止めの薬を母が渡す。
今思えば、これはなんと効果的だったのだろうと。

別に両親への恨み節をここで書き連ねたいわけではない。
というか、別に恨んではいない。感謝していることの方がいっぱいある。

ただ、そうやって知らず知らず身体に毒を蓄積させてしまっている人はいないだろうか、と。これは、そういう話である。

うちの親が特別ひどい毒があったと言いたいわけではない。繰り返すが、私はどんな親も毒を子どもに与えていると思っているのだ。
だから当然自分の親も毒親であるし、夫の親も毒親であるし、隣に住んでいる家族も毒親だ。みんな無自覚に毒親だ。


私の価値観を子どもに伝えることも、多分将来的に毒になるものがたくさんあるはずで、成長した本人が「これは薬で、こっちは毒」ということを自覚して、毒になるものを自分の意志で排出していくことが大切なんだと思っている。

「うちの親は毒親だったから」と周りに吹聴して、ただ被害者ヅラしている間は解毒なんて出来ない。何が毒で何を吐き出すべきかそれを考えて行動しない限り、恐らく、身体から毒が抜けることはない。

恐怖はただひたすらに毒でしかないが、価値観は薬でもあり毒でもある。

親と子はなんだかんだで他人である。他人の価値観と自分の価値観が完全に一致するなんてことはまず無いと言っていい。なのに「親の言うことは絶対」と妄信的になっているとしたら、それは自分の意志ではなく親の意志で生きるだけになっているということだ。

他人の価値観に賛同できない部分があるのはあたりまえのことだ。だからこそ「私は本当はそんな風に思っていない」ことに気づく事が大切なのだと思う。

私はここ最近でようやく「これは毒だった」と気づいて排出した価値観がいくつかあることに気付いた。

いちど気付いたら「あなたのためを思って」と差し出される言葉も「いや、それは飲めません」と拒むことが出来るようになった。
自分にとって薬になることばと、毒になることばを見分けることが出来るようになった。

拒むことが出来るようになったことで、何ていうんだろう。今まで見えていなかった世界が見えるようになった感覚がある。

受け取ることを拒んだとき「あなたは誤解している」と言われたが、誤解なんてしていない自覚があった。私は、私が大切にしたいと思っている価値観と違うから拒んだだけで、「あなたのことばを誤解している」わけではない。
理解したうえで受け入れないのは、誤解ではない。

親は子どもに薬を与えたいと思っている。
わざわざ痛みを与えたいと思う親なんて、多分きっとそうそういない。

親にとって子はいつまでたっても子ではあるが、子には子の人生があり、必要な薬は自分自身とはきっと異なっている。
自分にとって毒だったものを避けるために与えた薬は、優しさだったこともわかっているつもりだ。

良かれと思って差し出した薬が拒まれることは、恐らくとても悲しいことだったろう。
だが、薬か毒かわからないものを「飲み込むか、否か」を決めるのはその人自身だし、飲み込みたくないものを拒むというのは自分自身の確立でもあると思う。

だから『せっかく良かれと思って伝えてあげているのに』と思わないで欲しい。
むしろ『自分で自分の人生をどう生きるか判断が出来るようになったんだな』と喜んで欲しい。

私は、我が子が私が差し出したものを拒むようになったとき、何故拒むのかと悲しんだり、より強く押し付けるのではなく、自分の意志でそれを拒めるようになったことを喜べる親でありたいなと思っている。

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