障害は個性って言葉は綺麗事?
たまたま、Twitterでこんなツイートを見かけてずっと考えていた。
たまにこの議論を見かけるのだけど、私は「障害は個性」という言葉に抵抗を感じたことはない。
だって「個性」って、個人の性質みたいな意味でしょ?…と思って、検索してみる。
やっぱり「個性」という単語にポジティブな意味なんてない。
文字のまんまである。
「障害がある」ということは、他の人と違ったその人特有の性質であるし、その個体特有の性質である。
個性には違いないじゃないか。
ただ事実を述べただけではないのか。
そもそも何を持って「健常者」であり、何を持って「障害者」なのかという話もある。
障害者というのは「社会にとって障害になる人」ではなくて「今の社会に障害がある人」である。(…と、私は解釈しています)
足が健常な人にとっての段差は大きな障害ではないが、足に障害がある人にとっては段差は障害になる。
目が見える人にとっての信号は、記号的に意味が伝わる便利なものだけど、目に障害がある人にとっては何の意味もなさず、音がでない信号機の交差点は障害になる。
スロープを設置することで段差の障害は軽くなる。
信号から音が出るようにすることで交差点の障害は軽くなる。
社会がその人を受け入れる形に変わっていくことで、障害は小さくできる。
健常者というのは「今の社会で何不自由なく生きられる人」ということになるわけだけど、どんな人でも何かしら不自由を感じて生きているからどこかの視点から見ると障害者になりえるんじゃないかと思う。
逆に、何かしらの分野で障害者と言われる側も、目が見えるなら交差点では健常者だし、段差をものともしないなら階段では健常者なのだ。
その「生きづらさ」の障害の大小はもちろんあって、大きければ大きいほど大変なことは間違いない。私も一応診断が付いているとは言え、そんなに大きい方では無いだろうと思う。
でも障害が大きければ大きいほど「障害は個性」という言葉を嫌悪する理由になるのかと考えると、結局よくわからない。
どうして綺麗事に感じちゃうんだろう。
そんなとき、おだんごさんのこのnoteを読んで、なるほどと思った。
「障害=個性」にすることに違和感があるんだと。
あくまでも、障害は状態を示すものであり、その人そのものを指す言葉ではない。
その人が歩く道にあるハードルを見て「そのハードルこそあなたの個性ですよ」って、そのハードルが明らかに設置されてない側から言われたら「いやいやふざけんなよ」ってなる人がいると思えば納得できる。
そもそも、それが無い側からそれを言う事自体がおこがましい。
おだんごさんnoteを読んでのコッシーさんのnote。
私もこれに共感した。
私も、私の子どもも障害の診断は付いている。
最初はそれが悲しくなかなか受け入れられなかったけど、今となってはそれでいいと思えている。自分も、子どもも、障害を含めて個性だと思えている。
「障害はある。それでも私は私として、子どもたちは子どもたちとして、それと向き合いながら自分の人生を生きている。」
本人が『それでいい』と思えるようになったとき、そこでようやく、その人の障害を『個性の一部』と呼べるようになるのかもしれない。
私が今まで「障害は個性」のような表現をするときは、確かに超ポジティブな意味として使ってしまっていた気がする。その人にしかない、オンリーワン的な意味として。
本人が生きることに大変さを抱えている中、周りからそのニュアンスで語られる言葉は、確かに綺麗事だろうと思う。
これは他者に対して安易に使っていい言葉ではないのだな…ということを、心に留めておきたいと思いました。
お二方のnoteで気づきを頂きました。
ありがとうございました。
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