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「トランスジェンダー論争」において差別を定義する

私はジェンダー・クリティカルなので公平性に欠ける可能性があることをあらかじめお伝えしておく。

反差別をやってる人の多くが言語化出来ないまま直感的に差別判定をしていると思うけど、概ね同じ判定基準を使っているはずだ。
その社会における差別構造(一方に有利で他方に不利な制度や仕組みや環境)を維持・強化する言動を差別だという判定方法だ。

この有利な側(マジョリティ)と不利な側(マイノリティ)の人数の多い少ないは関係ない。マジョリティの方が多いことが一般的だけど。
社会が変われば差別構造も変わるので、日本では日本人はマジョリティだけど、アメリカではマイノリティになる。また言動の主が誰であれ、その言動の効果により差別かどうかが決まる。女性が女性差別に加担することだって可能なのだ。

「男性差別」とか「健常者差別」とか「(日本国内で)日本人差別」があり得るかというと、対になる側(女性、障がい者、在日外国人)と比べて社会の全体的な構造として不利な立場にあるとは考えられないので、そんなものはあり得ないということが分かる。

この判定基準で「トランス女性差別」を考えると、対になる非トランスと比べて就職や、トイレをはじめとした日々の生活の自由や、戸籍上の扱いに差別の構造を見ることが出来る。
なので「女性専用スペースにトランス女性は入るな」という主張はその差別構造を維持・強化するものであり、差別言動となる。

片や女性専用スペースにトランス女性が無条件に入り、性的な目的の男性かもと疑えば罰せられるようになれば、女性が社会で安全かつ自由に活動する上で、現時点でも質・量ともに全く不十分な女性専用スペースがその役割を失い、男性に比してさらに不利な環境に追い込まれるので女性差別の構造は強化されるのだ。

つまりトランス差別解消のための制度やそれを求める言動が、そのまま女性差別を強化するというジレンマ。
前者は分かりやすい反面後者は分かりにくいので、自分が女性差別に加担していると夢にも思わずに「差別に反対」する人も多い。

さらに、ジェンダーをどう捉えるかによっても視点が大きく異なる。生物学的性別(sex)までも社会的構築物だとして社会的性別(gender)に含める立場からすれば身体や性表現はどうであろうと本人が信じるジェンダーこそがその人の性別であり、トランス女性は文字通り女性なのだから、トランス差別だろうが女性差別だろうがどちらにしてもマイノリティである(インターセクショナルな)存在であり、上記のジレンマは当てはまらないとすることも出来よう。

一方、ジェンダーの否定的な側面である「ジェンダーバイアス」や「ジェンダーロール」はもちろん、肯定的な側面である「性別らしさ」も含めてジェンダーは解体すべきであり、全て「その人らしさ」とすべきだ、アイデンティティはあるが「ジェンダーアイデンティティ」など認めないというジェンダー・クリティカルな立場もある。

この立場からすれば、トランス女性は男性の多様性に過ぎず、女性差別の構造の中で抑圧者である男性を「男性らしさ」に縛り付ける「差別コスト」に苦しんでいるに過ぎない、トランス差別の構造は単独には存在せず、女性差別の構造の一部である、という見方もあるだろう。トランス差別の構造が女性差別の大枠の中にあるのなら「男性差別」と同様にトランス女性の問題はあくまで抑圧者側の問題であり差別にはあたらないとすることも出来よう。

だが私は、判断が分かれる場合に「それは差別ではない」と断じるよりも「差別にあたるので気を付けよう」とした方がより良いと考えるので、「トランスジェンダー論争」は足を踏み入れれば「トランス差別」か「女性差別」のどちらかの差別に加担するものと捉えることにしている。前述の通り、差別と定義し得るからだ。

「すべての差別に反対」したいなら議論に関与しない方が良い。安易に「差別者は黙れ」というならまず自分が黙るべきなのだ。十分に比較検討して、ここで黙れば女性は生命すら脅かされると思うから、私は黙らないのだ。女性差別に反対するために声を上げた人たちが暴力や権力をもって黙らされることを許すわけにいかないのだ。

「差別者」の自覚を持って、慎重に議論して欲しい。

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