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「『純粋思考物体』刊行1周年に寄せて」佐藤究

 2022年9月26日に『純粋思考物体』を刊行してから、はや一年がすぎた。
 初の刊行プロデュースだったが、多くの皆様が本書を手に取ってくださり、また、〈アトリエ空中線〉の間奈美子さんに手がけていただいた造本組版が、グラフィック社の『造本設計のプロセスからたどる 小出版レーベルのブックデザインコレクション』で評価され、誌面に取り上げられるなど、版元として思いがけない経験をさせてもらった。
 
 だが、もっとも思いがけなかったのは、著者の詩人・河村悟さんが病いに倒れ、本書の刊行後まもなく他界してしまったという現実である。この現実については、沈黙のうちに受けとめるよりほかにないし、途方に暮れているのは、何も私ひとりだけではないのだから、と自分に言い聞かせている。
 
 世に生まれ落ちてきた者は皆、いずれ死を迎える。
 私たちのこの〈からだ〉は、永遠に存在するようにはできていないのだ。
 
 ・・・しかし〈からだ〉とは、いったい何なのだろう? 
 私たちは〈からだ〉について、どれほどのことを知っているのだろうか?
 
 11年前に刊行された『肉体のアパリシオン——かたちになりきれぬものの出現と消失——土方巽『病める舞姫』論』(註1)の冒頭で、河村悟さんはこんなふうに書いている。
 
「死の宛名がつねに人間であるように、からだの願いごとの宛先はかならずしも自明のことではなかった。むろん、からだの願いごととは、からだについてのことではない。だれのものとも知れぬからだが自然の言語にも似た声なき叫びをかりて、さもなくば姿なき踊りを介して、嘆願しているのである」
 
 この文章を私が読んだのは20代なかばだったが、当時は何のことを言っているのかさっぱりだった(現在も似たような状況だが)。
 
 私の頭が混乱したのは文章だけではなく、ふだん会っている河村悟さんが〈肉体〉という言葉を口にするときでも同様で、どのようなイメージやヴィジョンがそこに込められているのか、まったく理路を追跡できずにいた。文学や芸術の話題なら背伸びして、食い下がって、とりあえず質問してみることもできたが、それすら叶わなかった。
 
 いまならその理由もわかる。
 それまでの私は、〈からだ〉について考えたみたことがなかったのだ。より正確に言えば、〈舞踏〉のレベルで〈からだ〉を考えたことが一度もなかった。それは健康や、スポーツや、さらにはかなり奥深い領域にあるはずの武術的な身体操作とさえも、異なっている。
 河村悟さんに会うまで、私は舞踏家・土方巽を知らず、そもそも舞踏の存在を知らなかった。
 
   * * *
 
「きみたちは機械のように歩いているだろう?」
 
 20代のある日、私は河村悟さんにそう訊かれたことがある。
 
 そのとき自分の思考に訪れた空白、あの無に近い状態の感覚を、私はいまでも思いだすことができる。
 ・・・いったい何を言っているんだ?
 思考停止の後に、私の内にようやく言葉、すなわち疑念が沸いてきた。
 ・・・歩行とは、めざす場所にいかに機能的に進むかということではないのか? 
 ・・・骨格にしたがって、筋肉と関節を連動させて動き、必要なら加速する。肉体が有機的な精密機械であるならば、機械のように動くのはむしろ理想的だ。
 ・・・機械のように歩いて何が悪いんだろう?
 
 かつての私は、そんなことを思った。
 だが、そこには大きな見落としがある。
 私が認識していたのは、〈目的のために使役される身体〉でしかなかった。
 外見をよくし、血糖値を抑えるためにカロリーをコントロール〈される身体〉。
 交差点の信号が赤に変わる直前に、早足で道路を歩か〈される身体〉。
 出場するボクシングの試合の階級に合わせて減量〈される身体〉。
 出生後に氏名を与えられて役所に登録〈される身体〉。
 
 目的のために使役されるもの、ただ純粋に目的へと最短距離で向かうものは、道具であり、道具とは機械である。格闘技の強者がしばしばマシンやサイボーグにたとえられるのも、たんなる言葉遊びではない。そこでは〈される身体〉が到達するべき理想が夢見られている。
 
 ところがその理想には、〈からだ〉が欠如しているのだ。目的のために使役される機械ではなく、悠久の時、言うなれば生命史の時空を漂いつづけている〈からだ〉それじたいの意味が。
 
 名づけられる以前の〈からだ〉。
 みずからはけっして名乗ろうとせず、沈黙のうちに〈私〉という自我に寄り添ったり、あるいは壊れたり、あるいは眠ったり、あるいは目覚めたり、あるいは震えたりしている〈からだ〉。鏡を見て「若くありたい」と叫ぶこともなく(それをやるのは自我だ)、老いの訪れをひそやかに受け入れる〈からだ〉。
 この〈からだ〉は、はたして〈私〉そのものなのだろうか?
 
 『純粋思考物体』刊行後まもない河村悟さんのインタビュー記事(註2)のなかに、こんな質疑応答がある。引用してみよう。
 

Q4 本書では舞踏やダンス、とくに暗黒舞踏の創始者として知られる、土方巽について深く言及されています。詩人と舞踏家の関係性が気になる読者も多いと思いますが、河村さんと舞踏との関わりは、詩を書く行為よりも以前のことなのでしょうか? それとも以後のことなのでしょうか?
 
書く行為以前でも以後でもありません。
舞踏の行為の只中で踊りの歯車にはさまれ逆回転して砕かれたことばの欠片を拾い直すのが、わたしの作業です。やがてそれがクリティカルな肉体の地平に接近していったと思っています。

 * * *
 
 私が見てきた河村悟さんの作業を振り返ってみれば、上記の回答はなるほどそのとおりである。
 きらびやかな言葉の王国に暮らし、詩の宮殿で安寧を約束されるだけの才能を持つ詩人が、しかしそこにとどまることなく、舞踏家の、舞踏の、クリティカル(危機的)な肉体の地平へと、つまり荒野へと旅だった。まるで追放されたかのように。
 しかし、河村悟さんを詩の宮殿から追放した力があるとすれば、それこそが本当の〈詩〉の力にほかならないのではないのだろうか。
 
 いま私は作家として仕事をしているのだから、少なからず、言葉の王国が支配している領地のどこかで生きているのだろう。だが、河村悟という詩人と会った記憶、痕跡、傷は、たしかに私の内に残された。私はいまでも作中の人物描写で〈身体〉という語を用いることにためらっている。記号のように〈身体〉と書いて、〈からだ〉と読者に読んでもらうことに抵抗がある。
 書くとすればおそらく〈体〉か、〈からだ〉のどちらかになっていると思う。
 
 それで何が解決するわけでもない。むしろ謎は深まるばかりだ。
 あたかも〈からだ〉の謎が解けたかのような前提において〈身体〉という語を書けないこの負い目は、作家である私に詩人が残していったゴルディアスの結び目であると同時に、未知の荒野の存在を示す標識でもある。
『純粋思考物体』の刊行1周年の節目に、私はそんなことを考えている。

2023.9.28


註1・『肉体のアパリシオン——かたちになりきれぬものの出現と消失—— 土方巽『病める舞姫』論』 2002年 クレリエール出版(絶版)※〈PASSAGE bis!〉にて取扱い中(PASSAGE by ALL REVIEWS3F ギュスターヴ・クールベ通り7番地)

註2・詩とダンスと、恩寵と。『純粋思考物体』著者、河村悟にきく。


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