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大阪市西成区という原風景〜フットボーラー松本光平をめぐって-01

 9月2日、ワールドカップ・アジア最終予選が初めて大阪で開催された。多くの同業者は試合翌日に東京に戻ったが、私は週末まで現地に残って取材を継続。そんな中、この機会にどうしても訪れたい土地があった。

 住所でいうと、大阪市西成区南津守──。セレッソ大阪のファンであれば「かつてトップチームの練習グラウンドがあった場所」として、ご存じのはずだ。

「釜ヶ崎」や「あいりん地区」などで知られる西成区は、お世辞にも誰もが訪れたいと思う土地とはいい難い。大阪在住の友人や現地で知り合った人からは「なんで行くんですか?」とか「何もないところですよ」とか「気をつけてくださいね」といった反応であった。

 確かに、あまり治安はよろしくないのかもしれない。それでも、かつてワールドカップの取材で南アフリカやブラジルを訪れた身なれば、その懸念には及ばない。現地には「西成」という駅はないので、南海電鉄の天下茶屋駅で下車。そこから徒歩で、南津守さくら公園を目指すことにする。

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 あくまで通りすがりの旅人視点だけで語るなら、西成には懐かしさと厳粛さに溢れた風景が広がっていた。古い文化住宅が並ぶ路地裏を歩くと「犬のフンお断り」とか「ネコに餌をやらないで」といった張り紙がやたらと目立つ。どっぷりとした昭和の風景。しかし、そこには往時の活気はない。シャッターを下ろした店が続く商店街と、お年寄りの多さを見るにつけ、令和の現実を痛感する。

 懐かしさと厳粛さ。ふと思い出したのが、20年前に訪れたアイルランドの下町の風景である。

 曇天の下に広がる、人通りの少ないグレイッシュな町並み。その向こう側にキラキラと光って見えたのが、地元フットボールクラブのスタジアムだった。西成にはスタジアムこそないが、それに相当するのが南津守さくら公園。トップチームは舞洲に移転したものの、今もセレッソの育成年代や女子のトレーニング施設として利用されている。

 おそらく「彼」もまた、このグラウンドに通いながら、自身の夢を追っていたのだろう。

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 そろそろ、種明かしをしよう。私が西成を歩き回っていたのは「彼」、すなわち松本光平の原風景を確認するためである。

 松本光平の職業はプロフットボーラー。といっても、Jリーグでのプレー経験もなければ、各年代の日本代表に選出されたこともない。その代わり、2019年にカタールで開催されたFIFAクラブワールドカップではオセアニア王者のヤンゲン・スポール(ニューカレドニア)の一員として、同大会唯一の日本国籍選手として出場している。

 もっとも私は、この時の彼のプレーをリアルタイムでは見ていない。私が初めて松本光平の名前を知ったのは、昨年の6月5日のこと。友人の丸山龍也さんのツイートで、あるクラウドファンディングの存在を知った。

 内容は「オセアニアでプレーする日本人選手が、不慮の事故で失明の危機にある」というもの。ちょうど私自身、白内障の手術を考えていたので他人事とは思えず、心ばかりの金額を振り込ませていただいた。

 それから3週間と少し経った6月29日、丸山さんを介し、横浜駅近くのカフェで松本光平にインタビュー取材する機会を得た。まず視界に飛び込んできたのが、金色に染めた髪、そして右目に貼られた大きな絆創膏。それなりの取材経験を積んできた私であったが、初対面でのインパクトがこれほど強烈だった人物というのは、ここ数年ではちょっと記憶にない。

 加えて相手は、失明の危機に瀕した現役フットボーラー。白内障の手術でビクビクしていた私にとり、松本光平の置かれた状況は、想像を絶するものであった。何をどう、切り出せばいいのだろうか──。しかし気がついた時には、私は笑っていた。というか、笑い転げていた。正直、この展開には自分でも面食らった。

 松本光平は、生粋の関西人。そして関西人には、天性のお笑いの話術がある(と、関東人の私は思っている)。実際、松本光平の話はとんでもなく面白かった。ただし、本人はほとんど笑わない。どちらかというと、ボソッ、ボソッとした語り口。言葉のひとつひとつが朴訥なのに、それが執拗に聞く者の笑いのツボに刺さりまくるのである。

 辛く悲惨な話を聞かされると思っていたら、思いっきり笑わされていた。それだけでも貴重な経験である。しかし、それ以上に稀有に感じられたのが、松本光平の言葉のひとつひとつが前向きで、尊いくらいに明るかったことだ。私はこれまで500人以上に取材してきたが、松本光平ほどポジティブな取材対象に出会ったのは、おそらく初めてである。そうして完成したのが、こちらの記事(埋め込んであるのはLINE NEWS)。

 掲載されたのは、昨年7月14日のREAL SPORTS。2019年からスタートした新興メディアながら、REAL SPORTSはYAHOO!にも記事を配信している。書き手としては、正直それほど「会心の作」というほどのものではなかった。

 ところが、なぜか驚くほどにバズった。担当編集者によれば「350万PV」で「この年のベスト10に入った」そうだ。普段は数字に頓着しない私も、さすがにこの時ばかりはキャプチャを残している。

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「総合」で1位になっていたことに、ご注目いただきたい。「スポーツ」ではなく「総合」で、しかも一般的には知られていないフットボーラーの記事が、これだけ多く読まれたのは、かなり異例なことである。

 こうした経緯が発端となり、私は松本光平の著書に「構成」という形で関わることとなった。もっとも、版元からオファーをいただいた時、若干の逡巡がなかったわけではない。というのも、自分の過去の仕事を振り返ったとき、ひとりのフットボーラーに密着した仕事は稀で、しかも成功事例は皆無だったからだ。

 実は一度だけ、誰もが知る有名選手による連載の構成を担当したことがある(しかも某新聞系週刊誌で)。今となっては夢のような話であるが、結果として私の中では消化不良の苦い経験となってしまった。その有名選手には、何ら落ち度はなかった。問題があったのは私の方で、要するに現役選手に寄り添うような仕事は、私には向いていなかったのである。

 この松本光平の企画の打診をいただいた時、そうした過去の苦い記憶が蘇り、ほんの一瞬、逡巡があったことを告白しておきたい。けれどもすぐに気を取り直し、謹んでオファーをお受けすることにした。理由は3つある。

 まず当企画は、いわゆる「選手もの」とは明らかに異なること(つまり、苦手意識を感じなかったこと)。次に、松本光平という選手(というよりも人間)を、もっと知りたいと思ったこと。そして(これが最も重要なのだが)、松本光平という人間の前向きでひたむきで純粋な生き方に、私自身がすっかり魅了されたこと──。

 おりしも新型コロナウィルスの感染拡大により、世界中の人々が、それぞれの生き方や考え方のリセットが迫られる時代。かくいう私自身、少なからずの仕事と紐帯を失い、人生の見直しを迫られていた。世界中のあらゆる場所で、あらゆる場面で、あらゆる人生がリセットを余儀なくされる中、それでも変わらなかった人間がいるとすれば、松本光平は間違いなくそのひとりである。

 大げさに言っているのではない。松本光平の目指すものは、コロナ禍の以前も以後も、まったく変わらなかった。プロフェッショナルなフットボーラーとして、常に厳しい環境に身を置きながら自らを鍛え上げ、そしてFIFAクラブワールドカップという夢の舞台に再び立つこと。それはコロナ禍のみならず、不慮の事故で右目の光が失われ、左目も失明の危機にあっても、寸分もブレることはなかった。

 だからといって松本光平は、自己実現しか眼中にないエゴイストというわけではない。むしろ逆だ。

 他者を思いやる気持ちに溢れ、常に礼儀正しく、相手によって態度を変えることもない。愚痴や悪口は一切言わないし、激しく落ち込んだり、自暴自棄になることもない。眼を負傷した時でさえ、自分の不運を呪ったり誰かを責めたりすることもなく、むしろ「僕は運が良かったと思います!」とさえ言い切るのである。

 おそらく松本光平には「心が折れる」という感覚が、生来より欠落しているのではないか。「なんてこった!」という状況になっても、悲嘆に暮れたり逃避したりするのではなく、本能的に打開策を見つけ出したら即実行。それで失敗しても、後悔したり自己嫌悪に陥ったりすることなく、すぐに次の策を思いついて前向きかつ愚直にトライしていく。その繰り返しだ。

 松本光平は、元号が昭和から平成に変わった、1989年に出生している。そのころの私はといえば、23歳という「いい大人」でありながら、実にのほほんとした大学生活を送っていた。怪我を抱えながら国内外で所属クラブを探し続けていた、23歳の松本光平との覚悟の違いに、今となっては愕然とするばかりである。

 そして時代は平成から令和へと移ろい、55歳になった私は23歳も年下の現役フットボーラーに魅了されている。失明の危機という、プロアスリートとして極めて憂慮すべき状況にありながら、FIFAが主催する国際大会への出場に向けて最大限の努力をする。そのストーリー自体、確かに素晴らしい。けれどもそれは、本書のテーマの、実は表層部分に過ぎないのも事実である。

 多少の大風呂敷を許していただけるなら、本書のテーマの核心部分となるのが「ポスト・コロナの時代を生き抜くためのヒント」だ。なぜ松本光平は、どんな逆境にあっても、決してポジティブさを失わず、目標に向かってブレずに生きていけるのか──。その謎を、彼のこれまでのキャリアから探っていく。それこそが、本書に隠された真のテーマなのである。

 さて、これまで12冊の単著を発表してきた私ではあるが、構成担当として関わる今回のプロジェクトは「試行錯誤の連続」と考えている。そこで思いついたのが、noteの活用。私にとってのnoteは「失敗できるプラットフォーム」である。このほど上梓した『蹴日本紀行』もまた、noteで展開した「フットボールの白地図」というプロトタイプを経て、日の目を見ることとなった。

 今回の松本光平のプロジェクトも(まだタイトルは決まっていないが)、このアプローチを採用しようと思う。現時点では構成要素も固まり、インタビュー取材も7割ほど終了している。これらをどう、一冊の書籍に収斂させていくのか。そのプロセスの一部を公開しながら、本書の方向性を見定め、精度を上げていくことにしたい。

 そんなわけで当連載では、複数回にわたる当人への取材、そして関係者へのインタビューを素材として、さまざまな角度から「松本光平という謎」についてアプローチを試みる。いつまで続くかは未定だが、最後までお付き合いいただければ幸いである。


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