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「表現規制に反対する」とは何か:法令は自由を守る道具である

ゆっくりしていってね!

今回は、月マガの読者さんから頂いたご質問に答える形で、「表現の自由を守る」「表現規制に反対する」という基本を説明させて頂くわ!

その基本を説明する都合上、本記事では、法令に基づく議論一般および裁判所が前提とする「お互い法令と証拠に基づき、話し合って論理的に考えれば、正しい判断が何かはちゃんと決まる」という建前が、あくまでも建前に過ぎず、実態とは異なることを示すわ。読者さんの中には「え? それが建前でしかないってマジ?」って驚いてしまう人も出るかもしれないわね。


最重要の基本:「表現の自由を守る」と法令

第一に、私自身の主義・思想として、自由にさまざまな表現が可能であってほしいという願いがあるわ。その願いを持っている以上、ゾーニングを含めた表現規制に反対するのは単純に当たり前ね。

でも、これを唱えようとした時、単に「私がそう願っています」ではお話にならないわ。本当は私に絶大な権力があって、それを使って「私が決めたからそうなのよ!」って風にできればいいんだけど、まあ現実的じゃないわね。

だから、私たちの社会が共有する基盤、すなわち法令や人権思想、あるいは時には自然科学的知見に基づいて「~ゆえに、その表現を規制してはいけないわ!」と主張してきたわ。まあ今後もそうするでしょう。

しかし、よ。

「法令や人権思想に基づいて正しさを決める」なんてのは、あくまでも「表現を守るという目的と、現状の『私たちの力』を考えた時、選ばざるを得ない対応策」であり、「建前」よ。

本記事では、頂いたご質問に対し、全体的に「法令に基づいて、このように主張はできる」と答える形にしているけれど、その前に根本的な限界を明確化しておくわ。

表現規制に賛成するにせよ反対にするにせよ、「法令に基づいた主張」は、正直、憲法学の教科書だの最高裁判例だのに書いてあることを上手くパッチワークすればいかようにも正当化できちゃうし、実際にそうやって表現規制は正当化されつづけてきたのよ。

青少年保護育成条例における有害図書指定制度は、憲法学者さんの通説では「違憲」ともされているけれど、裁判所の判断は「合憲」で、今もべつに覆っていないわ。

一応、「表現の自由」や「知る権利」は人権なんだから「他の人権と矛盾衝突していなければ、制約は認められない」という設定にはなっているわ。これが人権を制約できる場合に使う理屈の「通説」として、「一元的内在制約説」という名前もついているわね。

私もこういう「表現の自由を守るために有利な根拠法令・理屈・裁判例」は道具として使うし、無ければ無いで自分で何かアイデア練って編み出すんだけど、これは表現規制派も同じことができるし、しているのよ。

仮に一元的内在制約説とやらが通説で、裁判所も常にこれを採用するという非現実的な仮定をおいてみましょう。それでも表現規制がしたい人はどうするかしら?

別に簡単で、「その表現が人権を侵害していることにする何らかの理屈X」を作ればいいだけよ!

で、さっきの有害図書指定みたいに「合憲」って決まるのよ。実際にね。

表現規制に反対するにあたって、法令解釈、とりわけ憲法論を展開するのは、「(十分な資金や権力、人脈を持っていないという残念な事情により)やむを得ずそこに拠るしかない」という単なる都合よ。

だって、私のように貧乏で口くらいしか動かせないくせに、そのうえ法令にすら基づいてない「ご意見・ご感想」を述べたら、なおさら無力だからね。

ただ幸い、フェミニスト団体もそこまで超つよつよという訳ではないから、法令解釈論・憲法論でぶつかる局面もあるでしょう。そこで明らかな負け方をするのはまずいわよね。あるいは、どっちつかずで迷っている人に対し、私たちが「相対的に優れていると見える憲法論」を述べていたら、こっちになびいてくれるかもしれないわ(少し危うい浮動票さんだけどね)。

法令とその解釈はあくまでも道具であって、「表現規制に反対する」という目的意識には常に立ち戻らなければならないわ。

がちがちの法令主義者になって、「法令と裁判所が正しさを決める」としてしまうと、例えば有害図書指定もそうだけど、「いいね罪」が最高裁までいって「いいねを押すのは、やっちゃいけない表現です。以上!」という判決が下りたら、それは「法令に基づいて最高裁が人権を比較衡量し、正しいと認めた表現規制」よね。

この時、法令主義者はもう「いいね罪」について表現規制反対論を述べる道筋を失うわ。だから、何が目的で、何が道具かはきちんと自分の中でも整理しておかなければならないのだわ。

表現規制反対派は、とにかく新しい規制法案等や既存規制の拡大解釈(いいね罪等)に反対するという立場を堅持していれば基本的に間違えずに済むでしょう。本当に必要(かもしれない)表現規制は、世の中にたくさんいる規制したがりの人たちが言ってくれるから。

私たちはそれに精一杯反論するだけして(論だけではなく、もっとお金とかが使えればより良いけど)、あとは何らかの結果が出るだけよ。

さて、上記を踏まえたところで、頂いたご質問に答えていくのだわ。

……法令に立脚したパッチワークで!!

なお、今回はあくまでも言論上での対抗法とするわ。

現実の表現を守りたいなら、評論家風に「言葉で戦う」「しかもネットのみでやる」って正直いって効率が最悪なんだけど、これは私の個人的な限界。資金や権力があったら本当はもっとダイレクトな方法を採りたいわよ。

でも、私の預金残高、人生的に本当に色々なことがあって、いまリアルに9万5千円しかないのよ。(しかもこれ、数分前までは11万円あったんだけど、とつげき東北さんから「債務履行」などという意味不明の要求をされて、2万円とられたわ)

手嶋さんの全財産(2022年12月17日現在)

「会社員」という脆弱な身分に加え、この資金力で「政治を動かせ」とか、そこまで行かなくても「NPO法人を作れ」「法廷で戦え」とか言われても、ごめんそれ無理としか答えられないので、いまは「お話」で勘弁してほしいのだわ。

ゾーニングも「表現規制」である

頂戴したご質問はこちら!

【ご質問】
こんにちは、初めまして。 表現の自由に関して自己の考えを深めたいと思い、手嶋さんのnoteに辿り着きました。 有料noteの購読も行い、8-9割に大変賛成できる内容で、なるほどと膝を打っております。 私自身は女性であり、街に溢れる萌え絵の広告に、ちょっと気持ち悪い、不快などのマイナスの感情を抱きつつ、まあ別に我慢できる程度なので批判や、ひいては取り下げ依頼のような行動は全く行ったことがない人間です。男性アイドルやホストなどの広告も、繁華街ですと多いですしね。 また、法的な整理に関係なく、私のようなちょっとした不快感を感じる人たちを無視しても、ビジネスとして広告を出す方が、日本のいわゆるオタク的な人々の購買力が強く、広告主にとっては萌え絵広告掲載のインセンティブが強いのでしょう、という理解をしています。 以下のような意見に対する手嶋さんご自身の考えを、過去まとめているようなツイート群やnoteはありますか?ゾーニングに対して手嶋さんが反対という記載は見かけましたが、その理由を明確に記したコンテンツがなく、モヤモヤしております。

https://twitter.com/fuemiad/status/1599414748705325056?s=46&t=o2sD4vC2f62EGGoz7sZ7zg…

私自身は、街で大々的に掲載する広告については、萌絵に限らず品位のある内容を選んで欲しいという思いがあります。コモンローの精神で、デンマークなど美しい街並みに誇りを持つような市民の素養がある国を羨ましいと思いますが、日本はそういう国ではないですし、広告主は費用対効果しか見ていないので仕方ないですね。 もし気が向きましたらお返事くださいませ。

※強調太字は引用者による

まず「ゾーニングは表現規制の一種である」という前提を確認しておきましょう。「ゾーニング」も場所や年齢等で表現に規制がかかる以上、「表現規制であること」自体は揺らがないのだわ。

となると、争点は「そのゾーニングは、やってもいい表現規制なのか、やってはいけない表現規制なのか?」よね。(ここいう「やっていい」「やってわるい」は善悪は抜きにして、法令上正当化されるのかという意味に限定しているわ)

ここでは一元的内在制約説が通説で便利だから、使わせてもらいましょう。

一元的内在制約説をざっくりいえば、「他の人権と矛盾衝突していて、表現の自由・知る権利側を制約することが合理的かつ唯一の手段であるという時のみ、必要最小限の範囲で正当化される」という決め事よ。

萌え絵広告は表現規制を正当化しうるか?

では、萌え絵広告の性的表現に関して、ゾーニングするというなら、①他の人権と矛盾衝突している。②表現の自由・知る権利側を制約する他ない――最低この2つは満たせるかしら? とひとまず考え、私は「できない」と主張するわ。

萌え絵広告のせいで生存権が脅かされるってことはなさそうよね。これ以外の人権としては、幸福追求権、法の下の平等、思想及び良心の自由、信教の自由、学問の自由、居住・ 移転の自由、職業選択の自由、身体の自由、教育を受ける権利、労働者の権利、プライバシーの権利……と色々あるけれど、いずれも「(萌え絵広告を)表現する自由と矛盾衝突している」というほどの話ではないわよね。

だから、ゾーニングに反対だ――という理屈を述べるわ。っていうか、実際に述べてきたわ。

もちろん対抗者側・規制派は、それこそ生存権でもいいけど、何かの人権を結び付けて、「いや矛盾衝突しているほどの話だ!」とやってくるでしょう。

あとは完全に殴り合いなんだけど、根源はどうしたって誰もが殴り合いである中、それでも社会でやっていくとなると「私のパンチはいかに清らかで正しいものであり、その一方で、相手のパンチはいかに汚らわしく間違っているか」という勝負をせざるを得ないわ。

ただ、この「法令は、あくまで表現規制に反対するための道具として使っている」という意識は忘れないようにしてほしいのよ。

もちろん、意識上で忘れないようにするだけで、いちいちの議論で「道具に過ぎない」と発言しろって意味じゃないわよ。むしろそれはしてはいけないわ。

誰かと「法令に基づいた議論」で戦う時、特に正式に裁判所で原告・被告(又は被告人)が争う時がそうだけど、「お互い法令と証拠に基づいて論理的に考えて話し合えば、正しい判断が何かはちゃんと決まる」という建前(過剰に悪くいえばウソだけど)は強制的に前提となっているわ。

今回の記事は、その建前・前提を掘り下げる話だから非常に特別で、私だって普段はここまで言わないのよ。

裁判所で「いやそもそも法令解釈なんてどうとでも言えますよね?」なんて発言したら、裁判官の心証悪くなって不利になるし、下手したら法廷秩序維持法違反にも問われかねないわ。

だけど、表現規制反対派だったはずの人でも、「建前である」という点を忘れてしまうと、いつの間にか一部の表現規制を肯定する振る舞いをしてしまうパターンがあるのよ。

私も直近でやらかしたのだわ。

なにしろ自分で法令に基づくって宣言したし、その法令の特定の解釈を【優越的に正しいもの】としてブチ上げたし、そのうえで一貫性を保とうとしたもんだから、無茶が重なって自ら表現規制派にはまり込んだのよね……。

月島さくらさんとTwitter上で議論させて頂いて、「AV撮影の危険性」に基づいて疑念・懸念を呈し、労働者の安全を確保するという名目で表現規制を正当化してしまったのだけれど、これは私が目的を見失って、色々と完全に間違っていたわ。
(演者さんを「(被雇用)労働者」と同じ扱いにしたのも含めて色々と間違えた)

とつげき東北さんにも「表現規制派になったのか?」とツッコミを受けたし、永久の傷口としてここに刻んでおくのだわ……。ツイートだと流れて行って、なんか「無かったこと」にもなりがちじゃない? 間違いは間違い、恥は恥としてストックしておきましょう。


「見たくない自由」を考える

話が少し逸れたわね。ご質問はもう一つあるわね。さらに追加で同じ方から複数質問を頂いているから、それにもお答えしていくのだわ。

とりあえず最初の引用に含まれているところから。「見たくない自由」のお話よ。

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