『月曜日のたわわ』の3つ問題点?~「専門家」の論を批判する~
ゆっくりしていってね!!!!
『月曜日のたわわ』の広告が日経新聞に掲載された件がまだまだ話題になっているわ。
先日、ハフィントンポスト日本版に、次の記事が公開されたわ。
「専門家」として呼ばれた東京工業大学の治部れんげ准教授は、今回の全面広告について、記事の中で3つの問題点を指摘しているわ。
では、それらを順序良く扱っていきましょう!
破綻している「広告」理解~見ない権利~
1つめがこちら。
……えっと?
「見たくない表現に触れない権利」なんてあったっけ? まずそこが疑問よね。そして、仮にあるとしても、「表現する権利」や「知る権利」より優先する理由・根拠が必要よ。
だって、一部の人が「見たくない表現に触れない権利」を行使した時、「表現したい人」「知りたい人」のほうは制限を食らっちゃうわよね。なぜ、前者は尊重され、後者は我慢を強いられるのよ?
そう、ここには法律論的な問題が―――!!!!
……と、そんな熱っぽく難しい話をする「以前」の問題があって。
あのね。
そもそも「広告」って、大多数の人たちにとって「要らないモン」を、こちらの思いに関わらず無理やり紹介してくる活動よね?
たとえば、テレビのCM、YouTubeの広告動画、あるいはTwitterのプロモーションツイート……。
何でもいいけど、見たくて見てる人いる?
広告って、不特定多数に発信して、大多数には「要らねーよ! うぜえ!」と思われながら、一部の需要を掘り起こす活動なのだわ。
そうね。
たとえば、私はお酒をまったく飲まないから、「アサヒ!! スゥーパァードラァァイ!!」とか唐突にビールの広告を見せられても、困るのよ。
こっちはビールに対してそんなにテンション高くないし、なんならボチボチ不愉快よ。お酒に関しては、無理やり飲まされたか、酔っ払いを介抱した経験しかないわ。先輩が灰皿に吐いたゲロをトイレに捨てに行ったり、「飲んだから運転できない」と送り迎えさせられたり。
とはいえ、私は知性あるゆっくりだから「見たくない表現に触れない権利がある! それを傷つけられた!」とか絶対に言わないわよ。
だって、バカみたいというよりバカそのものになっちゃうもの。
治部れんげさんのツイートによれば、「私の主張のメインは法律ではありません。 コメント引用で見たくないものに触れない「権利」と書いてあるので、法律論だと思った方もいるようですが。」だそうだけど……。
法律論だろうが法律論ではなかろうが、まず「広告」に関する理解が破綻してるのよ……。
さて。
この人に真面目な話をしても仕方ない気がするけれど、もし「見ない権利」が存在するとしても、「表現する権利」「知る権利(見る権利)」よりもそれが優先される理由・根拠が示されなくてはならないわ。
法律論でなくとも、「なんでそっちが優先なの?」は問いとして普通だし、答えられなかったらお帰り願うわよ。
なお、「見たくない表現に触れない権利」の法律論的な観点からの問題点は、平祐介弁護士が次のツイートから始まるツリーで説明しているわ。
また、こちらのTogetterまとめ『「表現の自由」と「公共の福祉」に関する議論』の後半部分も法律論の問題に触れられているわね。私もお勉強させていただいたわ。
ステレオタイプに「お墨付き」を与えた?
治部れんげさんは次のように言っているわ。
広告掲載によって「異性愛者の男性が未成年の少女を性的な対象として搾取する」という「ステレオタイプ」を肯定したことが問題だとしているわけね。でも、これって話の理屈も、「ステレオタイプ」という言葉の使い方も変なのよ。
「ステレオタイプ」は、「ある属性の人たちは、こうだ」という人の属性についての紋切り型の決めつけよね。「母親は、家事や育児を担当するものだ」みたいな。
分かりやすくするため、上の話を理屈は同じままで名詞だけ書き換えてみましょう。
これは分かりやすいわよね。
規制しなきゃいけないかはともかく、よく聞く話なのだわ。この場合、ステレオタイプ化された被害者の立場を与えられているのは、世の中の母親さんたち全般よね。もちろん、家事・育児を担当する母親さんがいてもいいけど、"そうあるべきだ"と理想・規範を込めると、ステレオタイプ化になってしまって問題だという話よ。
じゃあ、名詞を元に戻してみましょう。
母親→異性愛者の男性
家事や育児を担当する→少女を性的な対象として搾取する
……。
…………。
えっ!?
『月曜日のたわわ』の広告掲載でステレオタイプ化された被害者って、「異性愛者の男性」なの!?
もういっぺん読みましょう。
……うん。
マジで論理的にそうとしか読めないわね。
「母親が家事をする」や「中東のイスラム教徒はテロリストだ」のようなステレオタイプと同様に、「異性愛者の男性は少女を性的搾取する」というステレオタイプが問題だと。
ステレオタイプによる差別に晒されているのは、女子高生ではなく異性愛者の男性なのね。
さらに言えば、「ステレオタイプに沿った人物描写」ってそれ単体では善いことでも悪いことでもないのよ。
たとえば、特定のマンガにおいて、特定の母親キャラクターが家事・育児を担当していてもいい。特定のイスラム教徒のテロリストを悪役にしてもいい。その作品のその登場人物はそうだってだけ。
ステレオタイプの問題が生じるのは、あくまでも「母親は"みんな"そうあるべきだ」という理想・規範のメッセージ性が認められた場合や、「そうではない母親は"みんな"、"悪い"または"劣った"存在だ」という差別が込められた場合よ。
「異性愛者の男性」が主語でも――あるいはそれは何らかの書き間違いで「女子高生」が主語だったとしても――上の1枚絵の広告表現から、ステレオタイプとしての普遍的なメッセージは読み取れないわ。
記事では、イギリスの例を引いて、「先進的なイギリスだったらこんな広告はアウトだ!」とでも言いたいようなんだけど――。
まあ、こういう風に言われたら、私がやることは決まっているわね?
当然ながら、その「イギリスの広告標準化協会」とやらを検索して、「実際にはどんな文言で"広告を禁止"しているのか?」を調べたわ。
さて。
イギリスの広告標準化協会(ASA)および広告実践委員会(CAP)が出している「性別にもとづく有害なステレオタイプ」のページには、次のように書いてあったわ。
やや抽象的だから、少し具体的な説明を加えましょう。
「ステレオタイプ的な役割」は「男性は仕事、女性は育児」みたいな役割論ね。一方で、「ステレオタイプ的な特性」は「男性はガサツだけど、女性は繊細」みたいな性質や傾向に関わる話よ。
そして、ASAとCPAがステレオタイプ的な広告表現のうち、問題となる可能性があるとしているのは、少なくとも「ジェンダー」の単位で一般性・普遍性が認められる場合なのよ。
あるジェンダーに属する人は「みんな」こうあるべきだとか、あるいは「みんな」これは出来ないものだとか。(例:「女性はみんな技術職に向いていないものだ」「男性はみんな勇敢であるべきだ」など)
繰り返しになるけれど、『月曜日のたわわ』の広告表現において、ステレオタイプ化されているのが「異性愛者の男性」にせよ「女子高生」にせよ、ジェンダー単位で何か普遍的なメッセージを送っているとは読み取れないわ。
加えて、ASA・CAPの審査においては、過去の事例を参照する限り、「広告と商品の関連性」がとても重視されているのよね。
日経新聞広告の『月曜日のたわわ』の場合は、「主人公である女子高生」を広告として表示しているから、広告と商品(マンガ作品)との関連性が低いとは、さすがにASA・CAPからも絶対に言われないでしょう。
「厳しい」というASA・CAPであっても、「広告対象のマンガ作品を代表する主人公が、露出のない制服姿で一人で立っている絵」に対し、「性的モノ化している」「女性一般を貶め、深刻で有害な影響も十分に懸念される」と主張するのは無理でしょう。
というわけで!
総合すると、治部れんげさんが言う「ステレオタイプ」がどうのこうのは、ぜんぶ不成立! 頼りにしたASA・CAPにすら、ガイドラインを読む限りおそらく味方してもらえない!
ただ、それにしても。
このような人が「東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授/内閣府男女共同参画会議専門委員/東京都男女平等参画審議会委員/豊島区男女共同参画推進会議会長」(治部れんげさんTwitterプロフィールより)なのね……。
立場としては男女共同参画についてすごく政治的な影響力がある。それこそ私の批判なんて歯牙にもかけないで済むくらいよ。
けれど、私たちそれでも批判し、記事を拡散させ、国民ひとりひとりに政治への参加意識を持ってもらうようにしたいわね!
今回は以上!
よろしければ記事のスキ&シェア、そしてTwitterのフォローをお願いしたいのだわ!
あ、「3つの問題点」の最後の1つは、オマケ有料部分で扱うわね。
だってもう根本的には終わってるでしょ、この話。
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