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アサシンクリード・シャドウズの「発売中止」を求める署名のお話

人種、民族、性別、宗教、年齢、障害、またはその他の同様の理由に基づき他者を卑しめる表現は憎むべきである。しかし、表現の自由の法学で最も誇るべきなのは、「我々が憎いと思う考え」を表現する自由を守ることである。

Speech that demeans on the basis of race, ethnicity, gender, religion, age, disability, or any other similar ground is hateful; but the proudest boast of our free speech jurisprudence is that we protect the freedom to express “the thought that we hate.” United States v. Schwimmer, 279 U. S. 644, 655 (1929) (Holmes, J., dissenting).

連邦最高裁:Matal v. Tam, 582 U.S. (2017)のアリトー判事のopinionより


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ゆっくりしていってね!

大人気のアサシンクリードの新作「アサシンクリード・シャドウズ」が、なんと発売する前から大不評・大炎上中よ。

「シャドウズ」は、戦国時代の日本が舞台。主人公として、史実としても存在した弥助という黒人の織田家の家臣が抜擢されたわ。(ダブル主人公でもう一人いるが本件と関係がないので扱わない。)

これだけなら、それほど多くの人が怒る理由はないでしょう。

けれど、本ゲームでの「弥助」の設定は、史実として知られている部分と大幅に異なる上に、戦国時代の日本の描写が間違いまくっていて、時代考証の不足の上に差別意識も見て取れる面もあったため、炎上に繋がったわ。

これまでアサシンクリードシリーズが時代考証のレベルの高さに定評があり、開発陣も「時代考証、専門家の助けも借りたし自信あります!」との旨で発信していたこともあって、尚更に不興を買ったみたいね。


私としてもエックスで色んな方からお勉強させて頂きつつ、具体的に「間違い」とされる部分を探した結論としては、まあボロクソに叩かれる所まではしょうがないわね。もう開催されてないけど、クソゲーオブザイヤーがあったらノミネートしてもいいくらいでしょう。(発売されたらね。)

ただ、私が賛同できるのは、批判・非難までであって、発売中止まで要求するキャンセル運動ではない。

この一線を超えてしまった署名活動が始まってしまっているわ。

最近、ゲームデベロッパーのUbisoftがリリースを予定している「アサシンクリードシャドウズ」について、歴史的正確性と文化的敬意の欠如が深刻な問題となっています。このゲームは日本の侍を主題にしており、侍が武士階級の上位階級であり、「御家人」あるいは貴人に仕える者であるべきという事実を無視しています。実際、初めて侍の称号を得た欧州人であるウィリアム・アダムズ(三浦 按針)は、250石取りの旗本として徳川家康に仕える者でした。このような歴史の中で、Ubisoft は侍の本質と役割を誤解し続けています。これは日本の文化と歴史に対する深刻な侮辱であり、またアジア人種差別に結びつく可能性があります。私たちはUbisoftに対して、「アサシンクリードシャドウズ」の発売を直ちに中止し、日本の歴史と文化に対する真摯な調査と敬意を示すことを求めます。あなたのサインが必要です。この請願に署名して、文化的敬意と歴史的正確性の重要性をUbisoftに伝えましょう。

アサシンクリードシャドウズの発売中止を求めます(change.org)


私はこの署名に「反対」せざるを得ないわ。「表現の自由を大事にしたい」という理念を持つなら、表現そのもののキャンセルではなく、批判や反論で対抗するのが筋でしょう。

そうでないと、差別だから問題だという理由付けも含めて、「性的なポスターはよろしくない!」「女性蔑視だから悪い!」と主張して表現の取り下げ(キャンセル)を要求するフェミニストとまるで同じになってしまう。

ざっと言えばこれが論旨な訳だけど……。

でも、こう言うと決まって「署名活動だって表現の自由じゃないのか!」とまるで私の矛盾をついたかのように反論してくる人が現れるわ。

結論からいえば、署名活動だって自由よ。むしろ署名活動は、民主主義を名乗る社会において相当強く尊重されなければならない権利でしょう。だから私は「署名活動をしてはいけない」という主張はしていないし、今後もしない。

正確に言うなら、私はあくまでも「発売中止まで求めるのは、表現の自由を重んじるという私の理念に反するため、その署名活動でなされている主張内容について反対」しているのよ。

私は実際、「フィクションが現実になるとき」や「小児性愛という病」といった間違った書籍をnote上で強く批判・非難し、その中の主張に反対してきたわ。この点では私も「シャドウズ」を批判している人たちと変わらないでしょう。

けれど、大きな違いとして、私は「これらの本を発売禁止にし、回収しろ」はもちろん、「著者に講演やセミナーを開く場所を与えるな」などと表現の自由(言論の自由)そのものを奪う意見を述べたことはないわ。

私が行なっているのは批判・非難・反対・反論の範囲であって、「存在ごと消え失せろ」ではない。

もちろん、「積極的に表現規制するべきだ」というのも一つの思想信条だし、本件をきっかけに表現規制派に転向する(あるいは最初から表現規制派である)というのも選択できるわ。ただ私はそれに反対だというだけ。「俺は賛成だ」という人がいてもいい。私もそういう人も、どちらも自分が正しいと考える意見を述べる自由があるべきでしょう。

いうなれば、あなたが仏教徒になって肉食をやめる権利を私がどうこうしたりしない。「殺生だから肉食はやめたまえ」と説教・布教に回るのもいいでしょう。ただし、私は仏教徒にならないし、肉食もする。その意見には反対だけれども、あなたの意見をいう権利は守る、よ。


ここで明確にしておくわ。
「シャドウズ」について、批判はしても発売中止までは求めていない人、望ましくは発売中止には反対している人は、私の批判対象ではない。後者に至っては考えを同じくする味方よ。

だって、「シャドウズを批判もするな!」なんて言ったら、私が「フィクションが現実になるとき」や「小児性愛という病」をボロカスに批判したnote記事は一体どういうことだよって話になっちゃうでしょ? まさか、私がやってる批判だけがきれいな批判で、シャドウズへの批判は汚い批判だとでも? 

よって、そういうことは言わない。正しいとも思わない。当たり前よね。

でも、ある表現物を批判することと、「それを消せ・存在すべきでない」と主張することの区別がついていない人が常にたくさんいるのが現状よ。

どうして「批判」と「キャンセルしろ」は区別しにくいのか?

エックスのポストで先駆けてこの問題を扱っていたけれど、リプライや引用リポストで、私は徹頭徹尾「発売中止署名には反対だ」と、「フィクションである以上、歴史モノとして出来が悪いとしても、まあそこまで怒らなくてもいいんじゃないか」という個人的意見(これは問題の重大性についての評価を含むから、価値観の相違、思想信条の相違による意見の違いは当然にあるでしょう)しかしていないのよ。

でも、どうも「シャドウズを批判すべきでない」と解釈されたような反応がちらほらと見受けられたのよね。

これを今まで私は「ちゃんと私の文章を読めていない」だけで片付けてんだけど、よく考えれば無理からぬ側面もあるという理解を得たわ。

日常生活でも――というか普通の人は日常生活でこそ――人から自分の言動について批判されることはあるわよね。批判してくるのは友人かもしれないし、家族かもしれないし、あるいは職場の上司かもしれないわ。

たとえば私が会社で「ちょっと手嶋君、さっきの会議での発言は、だいぶ上の人たいしてどうかと思うよ。指摘するにしても、言い方ってものもあるだろう」と批判されたら、その意図は「そういう発言・言い方をするべきではない」「できれば謝罪して、言いすぎた点は撤回すべきだ(取り消すべきだ)」と解釈してほぼ100%間違いないでしょう。

私もそう解釈するし、「いやしかし、私も社員だし、会議の場での表現の自由ってモンがあるでしょう?」なんてクソデカ抽象論による浮いた反論もしない。そんなの頭おかしいからね。

日常生活における批判は、ほぼその対象となる言動の撤回・禁止・再発防止、すなわち「やめてほしい」という強い要望を含んでいるわ。

だから、私が「シャドウズ発売中止の署名」を批判し、反対だと意見表明した場合、多くの人から「手嶋は(批判・反対した行為である)署名活動をしてはいけない、署名運動をやめろ、キャンセルしろと主張している」とごく自然に解釈されてしまう。

簡単には、「表現の内容に反対すること」と「表現自体を消そうとすること」の違いが分かればいいのだけど、日常生活でずっと使ってきて、しかもある意味で正しく機能している思考回路を「この問題を考える時には止める」ってのはまあ難しいわよね。でも、意識してみてほしいのだわ。

これを全く区別できないまま「これはさすがにキャンセルやむなし!」と言っていたら、繰り返すようにその意見自体は自由だけれど、私は「表現規制型フェミニストの同類」とみなすわ。だってそうだもの。あいつらだって、ジェンダー学者あたりが書いた産業廃棄物査読付きの論文を引用しながら、ついでに国連女子差別撤廃委員会の勧告文なんかも使って、「その表現を取り下げるべき理由」を述べられるでしょう。

「シャドウズ」についても、きちんとした史実を示す資料を引用しながら、「取り下げる(発売中止にする)べき理由」は確かに書ける。書けるけれど、結論が批判に留まらず「取り下げろ」まで至るなら、それはやっぱりフェミニストがやってるキャンセル運動なのよ。

キャンセル運動をするのも当然に自由であり、その権利があるけれど、「表現の自由を守ろう」という理念を持つ人が賛同する運動ではないわ。

もし今回シャドウズの発売中止に加担したら、次にフェミニストがオタクたちが好きな表現物を攻撃してきてキャンセルされそうになったとき、どう論理的に抗弁するの? 「お前たちだって、自分が正しいと思う思想信条に従って、キャンセルを求めるのはやってたじゃないか。思想信条は異なるが、私たちも同じことをしているだけだ」が脳天にブチ刺さって抜けなくなるわよ。お気持ちで存在していい表現と悪い表現を決めていると揶揄していた存在そのものになってしまう。

間違った現実認識に基づいて、男性差別(特に日本人男性差別)に積極的に推進しているフェミニストなんて私には特に大勢心当たりがある。「シャドウズ」なんかよりよっぽど酷い。そもそもがうんこのような統計(例:ジェンダーギャップ指数)を、更にスカスカの脳で無理な解釈して、現実社会での差別を進めている。


でも、そいつらがそういう意見で書籍を出そうが、講演・セミナーを開こうが、盛大に批判こそすれ「表現の自由」は奪わない。それが表現の自由を守りたいという人の原則でしょう。

一部には、「手嶋は署名の自由を行使している人を批判している」ことをもって「お前だって規制派だ」と言ってくる人もいたけれど、そうじゃないのよ。署名の内容、賛同に至った理屈を批判しているのよ。

例えば「学校教育で体罰を復活させましょう!」という署名運動があったら、まあ普通の感覚の人は反対するでしょう。けれど、反対したからといって、「体罰を復活にさせたい人が持つはずの『署名する自由』を否定した」ことにはならないでしょ?

あるいは、私が「小児性愛と言う病」の内容を批判したからといって、著者である斉藤章佳さんの表現の自由を奪うことに加担したとは言えないわよね。

もし、私が「シャドウズの発売中止署名について、その主張内容(発売中止の要求)を批判した」ことを以て私のことを規制派と呼ぶなら、「小児性愛という病」を批判したときも同じくちゃんと統一して規制派と呼びなさいよ。斉藤章佳さんにも表現の自由があるのだから、表現の自由を守ると主張している手嶋が彼の分析や意見を批判したのは矛盾だと。

「フィクションかどうか」は本質的な問題ではない

また、エックスでは「確かにシャドウズを作るのも表現の自由だが、制作者サイドが史実のフリをしていて、フィクションだとちゃんと認めていないのが問題」と指摘してくる人が何名かいらっしゃったわ。

従来のシリーズ通りなら、次のテロップはゲーム開始時に出る見込みだけれど、「制作者がネットでしている発言が問題だ」ということで、このテロップでは満足できない人も多いようよ。

アサシンクリードシリーズで定番のテロップ

まず前提として、制作者サイドや海外勢が「弥助=スーパーレジェンド黒人武士説」をフィクションと認識しているか史実と思っちゃってるかどうかはともかく、上記の指摘をする人が「発売中止までは求めていない」人で、かつ歴史の専門知識がある方ならそれを活かして検証し、批判しまくってほしいわ。


なにしろ私の主張・意見上、何ら敵対関係にないし。

「フィクションが現実になるとき」「小児性愛という病」は自分でやったのに、「シャドウズ」で私がそれをしてないのは、シンプルに知識の問題っちゅうか、戦国時代に詳しすぎ界隈に今から私ごときが勉強して追いつくのは無理、貢献できる力量がないという事情の反映でしかないわ。間違いの指摘で間違えたら、かえってご迷惑でしょう。

表現の自由の話に戻すのだけれども、制作者サイドが完全に「これは史実である!」と銘打って、さっきのテロップも「シャドウズ」では出さなかったとしましょう。そこでの違反を仮に認めましょう。

その場合なら、「発売中止を求めて実現させる」ことも、表現の自由を守りたい立場の人の振る舞いだと言えるか? ――私はそれでも否と答えるわ。

例えば、作家の百田尚樹さんが書いた通史「日本国紀」は、まるでデタラメで間違いだらけだと歴史に詳しい人たちから数多くの批判を浴びたわ。

当然ながら、この本には「フィクションです」という但し書きはない。むしろ日本の「正しい歴史」が学べる本だという位置づけよ。それで売れまくり、今も文庫版に形を変えて更に売れているわ。通史を扱った書籍としてはベストセラーと評していいでしょう。でもデタラメ。

また、「新しい歴史教科書をつくる会」(1997年発足)が作成している歴史教科書も多くの問題点を抱えていることで有名よね(2001年版の執筆者に漫画家の小林よしのりさんがいるあたりでも察する人は察するでしょう)。2020年には作成した教科書が文科省の検定に落ちて不合格になったわね。

ここまで目立つ例ではなくても、書店にいけば、歴史のコーナーに「教科書では教えてくれない真の歴史!」みたいな本が並んでいるでしょう。教科書で教えてくれないのは、とりわけこういう売り文句を使っている場合、ほぼ内容が間違っているからだと決めつけて差し支えない。

でも、これらの事例を前にしてさえ、「表現の自由」は重い。奇説・珍説を唱える自由は保障されなきゃいけない。発売中止や回収を求めるのは、表現の自由という理念を持つなら、それに反すると私は考えているわ。

もし「公式見解」「その学問の今の権威(主要学会等)の通説」以外の発言権、新しい説や異なる説を唱える権利を許さないとしたら、公式見解や通説の正しさは逆に地に堕ちるわ。

なぜか?

学問の正しさは、どんなトンチキな異論・反論にも現状では耐えていることによってのみ暫定的に示されるものだからよ。

こうして開かれた状態で正しさを示すのではなく、「正しいか間違いかを決める絶対的な団体がいて、その特権で間違いと決めた言論を締め出せる」なら、「異論反論との戦いを免除されているから、正しいことにされているだけ」になってしまうわ。

要は中国共産党のやり方よね。その「正しさを決める団体」が正気で理性的だと誰が保障してくれるの? まさか日本ファクトチェックセンター?(冗談が過ぎるわね……。)

なるほどコロナワクチンに対する批判は、多くの面で的外れで、「発言権なんて与えなくていいんじゃないか?」と思うようなものも多かったわね。5G回線を経由して人を洗脳するチップが混ぜ込まれているとか。

でも、国家政府と「すごい研究所のすごい賢い人たち」が安全だと認めた薬で、過去にいくつもの薬害が起きているのも事実よ。毎回、「いまは科学が発展して、安全確認がしっかりしているから大丈夫」と言われてきた。山のように安全性を示すデータがあった。偽りなく誠実に、そして科学的に思考した上での結論があった。事前に多くの専門家が関わって検証を行なった。でも、やらかす時はやらかす。

個別にコロナワクチンがそうだとは私も思ってないけれど、「特定の団体が間違いだと判定した言論を『安全のため』などの名目によって意見発信の場そのものから締め出せる」とまで一般化するならとても危険だわ。


どんな角度からでも異論反論を述べることができる環境があり、その中で特定の仮説が生き残っていること。これだけが「暫定的な正しさ」を私たちにもたらしてくれるわ。

もちろん、何度も言うように、「それでも、こういうのだけは別じゃないか」と反対する自由はあるわ。まあ、めちゃくちゃな暴論を見た後だと、特にそう考えるのも分かるしね。また、そもそもの日本国憲法だって制度上は改正手続きもとれる訳だし、別に「こういう規制はありにしよう」という意見を持ち、政治活動にいそしむのは全く自由よ。

青少年保護育成条例の有害図書指定に賛成だというのなら、それもまた現行法(現行条例)ではあることも鑑み、私とは違うけれど一つの意見だとは認めるわ。

ただ、私の見解としては、その人は「表現規制派」には該当するわね。(私が私の考えに基づいてそう判定するだけだから、気にしなくても実害はないわよ。)

「シャドウズ」の弥助に反論する人がレイシストと扱われている問題

別の論点として、(いい加減しつこいけど)発売中止に賛同していないならいいとしても、「シャドウズにおける弥助の立場を批判すると、レイシストのレッテルを貼られてしまう事態が起きている。だから発売中止の署名に賛同した」という旨の意見もネットでは見られたわ。

でも、それもやっぱり「発売中止を求める」ではなくて、暴力沙汰にでもなっていない限り(すなわち言論の範疇にいる限り)、論には論で対抗するべきでしょう。たとえ間違った知識に基づいていたとしても、「レイシスト」という言葉をどう定義し、どのような意見を述べるかはその人の自由よ。

私に言えるのは、特定個人の人権を侵害する違法な表現(合意のない盗撮とか、プライバシーの侵害、ある人がやっていない犯罪をやったと喧伝する名誉毀損等)でないなら、「差別や侮辱、ヘイトが含まれていようが、フィクションかそうでないかに関わらず、表現の自由は最大限尊重されねばならない」という従来の主張を改めて述べるわ。

実際、日本にも「テコンダー朴」みたいな漫画があって、これについてはフィクションではあるけれども、「韓国を侮辱し、韓国人を差別する内容であり、ヘイトスピーチ本だ」と言われたら、「まあ……それは、ええと、はい。そこはそうですねぇ……。」と認めざるを得ないわよね?



……まあ、「テコンダー朴」に関しては、韓国をバカにするついでに日本のネット右翼もバカにしている気はするけど……。

また、フェミニストが「女性蔑視表現だ」とか主張するのも、(「女性蔑視」という言葉の対象が広すぎる問題はあるものの)表現物によっては本当に正しい場合もあるでしょう。

それでも「そのような"けしからん"表現をする権利はある」と述べてきたのが私たちではなかったかしら? 「女性」が「日本人」に変わると、意見も変わるのかしら。それはどのように線を引いているのか、私としては甚だ疑問よ。

ここで冒頭で引用した連邦最高裁の文章を再度紹介したいのだわ。

人種、民族、性別、宗教、年齢、障害、またはその他の同様の理由に基づき他者を卑しめる表現は憎むべきである。しかし、表現の自由の法学で最も誇るべきなのは、「我々が憎いと思う考え」を表現する自由を守ることである。

連邦最高裁:Matal v. Tam, 582 U.S. (2017)のアリトー判事のopinionより


ちなみにこの裁判は、ロックバンドが「The Slants」(Slantsはアジア人を蔑視するワード)を商標登録しようとしたところ、米国特許商標庁が「侮辱・中傷する名称は商標登録できない」との米国法第 15 章1052 条に基づいて却下した件について、「法律そのものが憲法修正第1条の言論の自由に違反する」とされたという事案よ。

私は「表現の自由」について、この考え方を支持・賛同しているわ。

「シャドウズ」については批判・反論を歴史に詳しい人にどんどんやって頂くとして、発売中止というキャンセルの試みには「反対」しておきましょう。(あくまで「反対」よ。「誰も署名してはいけない、誰にも署名するという権利は存在しない」という主張じゃないわ。「あなたがしているキャンセル運動の署名には反対だ」という主張よ。)

それに戦略的にも「発売中止」を成功させるのは良いとも思えないのよ。「レイシストからの酷い誹謗中傷によって精神的に追い詰められた職員もおり、危害を加えるという予告もあったため、発売を断念せざるを得ませんでした」なんて言わせたら、堂々と被害者ポジションを取られてしまうわ。

こんだけ炎上したら、「法律違反レベルで言いすぎたヤツ」は探せば絶対いる。そいつに訴訟を起こして血祭りにあげたら、勝鬨をあげるのはゲーム会社よ。

だからゲームを発売する自由そのものは「寛容に」擁護しておき、その後、ゆっくりと丹念に内容でシバきあげる。実際それがいいんじゃないかしら? 連中には何の言い訳も残らない。

日本人への差別問題として対抗する場合、英語および可能ならフランス語(制作元はフランスの会社)での発信が望ましいけれど、「間違っている点」をわかりやすくまとめたサイトがあったら、私は微力ながらエックス等で拡散協力させて頂くのだわ。

最近は動画が多くて、情報が散乱しているから「これ!」というものは示しにくいのだけど……まとめサイトを出典にはしたくないしねぇ……。

最後に、「シャドウズ」では著作権侵害とおぼしき表現があるという問題だけど、それは権利者間で法に従って適切に対処されるべきよ。著作権侵害は表現の自由じゃねえ。

以上!
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