見出し画像

【雑記】卯月コウさんの切り抜きで気付けたこと

Xの下書きに「他人の思いやりのなさからくるちっちゃな不幸が重なりすぎて涙でそう」というメモ書きを見つけた。これに対するメタ的解説をVtuberの卯月コウさんがしてくれていたみたいなので、それについて書きたい。

この切り抜きで卯月さんが言っていたのは、

「自分が優しくあることがアイデンティティになってしまう現象ってすごく寂しいよね」
「そうなってしまうと優しくあることにがんじがらめになって、世の中のいろんなことに折り合いが付けられなくなっていく」
「世の中のいろんな部分が許せなくなって、いろんな部分に簡単に絶望するようになってしまう」
「すると、ものすごいバックボーンもないのに鬱的な状態になってしまう」

優しさが取りえになっている人について語る卯月コウ【にじさんじ切り抜き】より

個人的にはコメント欄のこのコメントも刺さった。

優しさも振り撒き方を考えないと、「何でこの人たちって俺みたいにいろんなモノやヒトに優しくできないんだろ」って他人にも俺のスタイルを強要してしまいそうになる

コメント欄より

自分があらゆる方面に優しくあろうとしているから、他人が優しくないのを目の当たりにしたり自分が体験したりすると、より強く嫌悪感を感じるのかもしれない。SNSで炎上した人を叩いている人をみて「なんで黙っていられないのか」と憤りを感じる。電車で傘を当ててくる人がいると「なんで傘を当たらないようにしないのか」と思う。授業中にパソコンを忙しなく大きな音を出してタイプしている人を見て、「どうせ授業とは関係のない事をしているくせにうるさいな」と思う。他人の小さな行為が、私を息苦しくさせる。
別にそう思うこと自体は悪いことじゃないと思っているけれど、でもそれは「私が優しくしてるんだからあなたも優しくしなさいよ」という、はた迷惑なやさしさの押し付けなのかもしれない。もう、世界のあらゆる理不尽に折り合いが付けられなくなっているのかも。インターネットとはそういうもので、他人とはそういうもので、と考えられなくなってしまっている。
「全人類が私みたいになればいい」だなんて考えている時点で、多様性なんて語れたもんじゃないな、ほんとに。なぜ今まで気付かなかったんだろう。今までは多様性の尊重を、自分にとってある程度理解できる範疇に留めていたみたい。性的マイノリティとか、障害者とか。でもそれじゃあ少し足りなくて、多様性ってきっと、自分には理解できない部分(時にはそれが理不尽にもなり得る)を「そういう人もいる」「そういうこともある」と、折り合いをつけていくことなのかもしれない。

この記事を書き始めてからずいぶん時間が経ったけれど、まだその折り合いは上手くつけられない。それが今の私であって、泥臭くて良い。いちいち神経質になって、勝手に一人で傷付いて、イライラして。それでもまだ、他人に期待してしまう。なんて滑稽だろうか。でも、それが21歳の私なんだろうな。今はまだ、折り合いが付けられなくても良い。それを悪意を持って誰かに向けなければ、私の中で留めているならば、それでいい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?