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奈良「室生寺」イラスト解説

室生寺の成り立ちと歴史を一枚のイラストにしてみました。

奈良県宇陀市の室生寺

竜が住む水の聖地として古くから信仰されてきた奈良県宇陀市の「室生山」。名僧が集う山寺として創建された後は、徐々に真言密教の根本道場としての性格を帯びていき、室生寺は「女人高野」として親しまれていきます。

山の中に静かに佇むお堂や仏教芸術の美しさは訪れる者を癒してくれる人気のお寺「室生寺」その成り立ちと歴史をご紹介します。

<聖地のパワーの源は、1400万年前の巨大カルデラ噴火>

室生山のある地域一帯は、「室生火砕流堆積物」と呼ばれる地層から成っており, 「曽爾高原」や「赤目の滝」、「屏風岩」といった自然の景勝地が有名です。
この地形は火砕流堆積物が風化・侵食されたことより形成されたもので、奇岩や洞窟といった地形は古くから人々が信仰の対象となり、後の竜神信仰や水神信仰につながります。
この室生火砕流堆積物の給源火山の位置については、分布域より南方にあり、 1400万年前頃紀伊半島で形成されたカルデラ群(大台、大峰、熊野)のいずれかであると考えられているようです。
(ちなみにですが1400万年前は、人類がまだ猿の頃。縄文時代が1.5万年前から始まったことを考えると、1400万年かけて風化・侵食された室生の地形に、人々が神秘を見出すのも、頷けます。)

<室生寺の創建>

「宀一山年分度者奏上」によると、
桓武天皇が皇太子時代に病気をした際、
室生の龍穴にて5人の浄行僧が延寿祈禱をしたところ見事全快せしめました。このことがきっかけとなり、即位して後、室生山に寺を建立するよう勅命を出します。

勅命を受けたのは興福寺における法相宗の学匠である賢璟で、彼は尾張大僧都でもありました。
賢璟は都と尾張の間に位置する室生の地相をよく知っており、また当時流行していた山林修行をするための山寺を創設するために、この地を推挙したのではないかと考えられています。

賢璟は、室生寺創建後間もなく、この地に住む竜を室生寺の伽藍護法の神として祀るべく、室生龍穴神社も建立しました。(神宮寺とする説もあります)

日本最小の五重塔

<2匹の竜の説話>

勅命を受けた興福寺僧の賢璟をはじめ、賢璟の弟子であり室生寺の実質的な開基とされる修円も興福寺の別当を務めたことからも分かるように、室生寺は興福寺の別院(後に末寺)として興福寺と深いつながりがありました。

興福寺とのつながりを示す説話として、
鎌倉初期の説話集「古事談」では、室生龍穴に住む竜王は、興福寺の猿沢池から春日の香山を経てやってきたとされています。

しかし、平安時代中期から真言密教が流入してきます。
創建当初から雑密の修行がなされていたことや天台僧がいたこともあり、室生寺には密教の素地がありました。
時代の波に乗るように、室生寺は徐々に真言密教化していきます。

鎌倉時代の末期には、室生寺中興の祖とされる忍空が室生寺の長老になりました。彼は律僧ですが、真言密教を兼学しており、彼の入住時に灌頂堂や、奥の院の御影堂(空海)が出現しています。
真言密教は室生寺の創建を、天武天皇の勅命を受けた役行者とし、空海を中興の祖とするなど理論付けを行っていきます。

密教の立場で形成された竜王説話では、空海が請雨祈祷を行った平安京の神泉苑に住む竜王善女が、暴風のため苑池を去って室生山に至り、室生寺を真言密教の道場とするよう空海に勅されたとあります。

竜穴神拝所

<興福寺の守勢〜本地垂迹の金堂〜>

真言密教が発展する一方で、南北朝時代からは、興福寺自体が衰退の兆しをみせはじめます。
室生寺は実質的にますます真言密教の寺となっていきますが、
興福寺側も威光を示すためか、室町〜江戸期に、薬師堂(現金堂)の本尊である薬師如来を釈迦如来とし、客仏二体を置くことによって、元々は薬師如来を中心にした三尊+十二神将であったものを、春日の五本地仏になぞらえて配列をし(宝物殿ができる前の金堂のズラリとした並び)、
薬師堂を金堂に改変するといったことを行っています。

鎧坂よりみた金堂

<室生山争論>

江戸時代にはついに真言密教側が興福寺を寺院奉行に訴訟して室生山争論に発展します。
正統性において当然、興福寺が勝訴したのですが、興福寺による室生寺支配は困難になっていたのは事実で、17世紀末には権力僧の隆光が密教徒のためにと室生寺を拝領することになりました。
また隆光に帰依していた綱吉の母桂昌院が室生寺に多額の寄進をし、室生寺は、真言宗寺院として独立することになりました。



<参考>

  • 地質学雑誌 第 118 巻 中新世の室生火砕流堆積物

  • 逵日出典 「室生寺」 新人物往来社



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