シリーズ:「哲学の根」 企画第1弾:「営為としての西洋哲学史入門講義」 第1回:序説&ミレトス学派

 どうもです。この企画では「営為としての西洋哲学史入門講義」と題して、その題の示す通り、西洋哲学史を自ら考えつつ概観できるような概説を行う。哲学史は、たんに空疎な哲学史に終わるのみならず、哲学することに対しての意味を持たなければならないという信念を持ってではあるが、しかし同時に学習者の用をも満たすものが存在しなければならない。では、早速ではあるが本文に入る。


1,営為としての哲学

一、あらゆる試行錯誤の営為としての哲学について


 私にとって哲学とは、あらゆる総ての試行錯誤が結果としてまとめられた営為への敬称あるいは蔑称である。もはや、philosophia(知への愛)では語ることのできないものを、哲学は含んでいる。だから、哲学は、見物としてのテオーリアや出歯亀根性丸出しのエロースだけでは語り尽くせず、それらを超えた或るものである。しかし、無知の知=不知の自覚に表明されているフィロソフィアの「求め」または「焦がれ」の精神は、「試行錯誤」というかたちで今なおこの営為に息づいているといえよう。その意味で、「「人間」はどこだ」というあの言葉は、こんにちにおいてはたんに探究者の言葉であるということではなく、AIについて激しく議論されるこの時代、むしろポイエティックな言葉としても響くであろう。だから、この時点で、人間の制作が人間を超える或る者の先史をなすということが容易に想像される。しかし、哲学は史的営為として行われてきたような神と自由と不死性、また自然や存在や認識や苦悩についての試行錯誤でもありうる。このような諸々の点において、哲学はその総体として宿命的に広さを背負っている。だから、私見になるが、文献学的な哲学は補助的な必要性をもっているがしかしあくまでも補助的であると思う。しかし当然、先哲への敬意ある継承という視点も欠かしてはならないのだが、それよりも分量的にやるべき学びはなお多く、かえって諸学に頭を下げることによってのみ哲学は活きると確信する。神秘的な存在論や妄想にも似た実存主義は、なにか哲学とは違うことをやっているのだろうと思うが、それらはそれらでまた一つ一つの諸学として、哲学者は頭を下げなければならない。哲学においては、かえって自分を低くする者が高められる、とは限らないが、少なくとも際限なき自足から生ずるものは甘美な虚無かそれ以下のモノクロームである。しかし、際限なき自足も、それ自体を自己目的とするのであれば、あながち、悪くはないようにみえる。

二、貫成人『哲学マップ』の提案


 『哲学マップ』という書籍において、著者の貫成人は、哲学という営みを、西洋哲学を基本線において、その発想法をおおまかに整理している。
1・・・「外部」による意味づけ
 これは、日常などをそのさらに「外部」から意味づけるという発想法である。
「なぜ働くのか?」→「自己実現のため」→「・・・」→「・・・
という発想法のことであるらしい。
2・・・「全体志向」
 哲学はたいていこれを持つ。ある共同体やある個人に妥当する判断ではなく、「すべて」について言えなければならない、とする志向のことである。
3・・・「私とは誰か」「私は何を知りうるか」
 これは、近世から近代初頭にかけてみられた議論の典型である。
4・・・「そもそもなぜそれを問題にしているのか」
 現代思想に広くみられる、いわば問いへの問いである。

 私はこれに完全に賛同はしないにしても、確かに通説としての哲学の歴史は、おおまかに言ってこれに沿って展開してきたように思う。しかしこの解釈は、同時に信仰や行為を軽視し問いや反省的認識を重視するようなバイアスがかかっているようにみえもする。そこは留意されたい。

2,初期ギリシア自然哲学の始源ーミレトス学派の三哲人ー

一、時代精神による始源


 哲学の歴史を語り始めるとき、その伝達が文章でなされる場合、筆者は往々にして過度に気合が入るものである。それによって、本邦への哲学の移入や、哲学以前の知など、様々に趣向を凝らした語りがなされるものである。そこで私は、ともすれば悪弊ともなりかねないそのような語りをこの入門では排して、アリストテレス『形而上学』第一巻第三章以来の通常の伝統に従い、タレスの水から語りを始める。
 紀元前585年5月28日の皆既日蝕予言という手がかりの残る、「最初に哲学をした人」タレスは、おそらく紀元前6世紀頃、古代地中海世界のギリシア人居住地であるイオニア地方の都市ミレトスで、様々な伝説に彩られた活躍をなした。ギリシア人居住地と言っても、そこはアナトリア半島の、現在ではトルコにあたる地域であり、ギリシア本土とはエーゲ海を挟んで対岸である。そこについては、おそらくその民族性と土地柄がタレスをしてかの新しい営為へと歩を進めさせた、と言うことは至極妥当だと思われる。では、そのような民族性と土地柄とはどのようなものか。それについて言えば、古代ギリシア人が常に交易を必要としていたことに求められるし、また、当時のイオニア地方が先進文明地域であるオリエントに接しており、その都市文明を受容していたことが挙げられる。そして、タレスが万物の始源、すなわちアルケーがそれであるとした「水(ヒュドール)」には、明らかにオリエントにおける「水の神」の神話が反映しているとされている。しかし、タレスは新たな営為へと踏み出したのである。タレスにおいてそれは、全体志向的な原理への問いとしてのそれであった。だから、そのそれなるものをたんに「水」と言ったとき、従前の創世神話に対して、タレスにはどのような意義があるのだろうか?私はこれに対して、それ自体としての意義は、哲学においては皆無であると回答する。擬人観的自然観の廃止というものには、物活論の存在によりあまり説得力がなく、なおかつ擬人観はタレスの後も現代に至るまで当然に継続している。むしろ、タレスの吹いた笛に応じたアナクシマンドロスの方にこそ、私は哲学の気息の無限のはじまりを感じる。私はしかし、確かにそのような自足でない、未来へ向けた哲学が好きであるが、同時に絶対的に自足し自己完結した哲学も好きなのである。一切が無知であるかぎりにおいて、さらには一切の自己が無知であることに対してすら確知していないかぎりにおいて、現実性のフレームはどこまでも現実感に留まるかに思えるがそうではないはずである。私はデカルトも含めて、確知を掴んだ者を関知したことがない。そこで問題となるのは、現実性を、すなわち現実感や感覚や習慣や、ひいては世界さえも変えてしまうような信念である。信念のアクチュアリティがここに存し、そしてここに議論の分岐がある。すなわち、発進し展開し、現実を作り変えてしまうような知のあり方を望むか、或いは、信念の自足に安らぐか、というものである。そして紛れもなく歴史的営為としての哲学は、アナクシマンドロスによって自足を否定せられたのである。
 さて、アナクシマンドロスは、タレスの議論を引き継ぎつつもすなわち批判的継承をなし、「水」に対して「ト・アペイロン(無限なるもの)」をアルケーだとした。アナクシマンドロスは、この現にある世界の多様性の説明に「水」で応答することは不当であると考えたのだろう。ト・アペイロンは、たんに量的な無限であるだけでなく、質的にも無規定でなければならなかった。また、アナクシマンドロスには、熱-冷、乾-湿、などの、相反対の発想があったようだ。さらに彼は、タレスを引き継ぎ、ミレトス学派の3人に共通してみられる思考法であるところの、生物からのアナロジーでの宇宙理解を行っていたようだ。すなわち、「生ける自然」の思想である。彼がアイディアとして進化論を唱えていたらしいことが確認されるが、なぜそのような発想が出てきたのかという点は興味深い。
 今回の最後は、ミレトス学派の最後を飾るアナクシメネスである。アナクシメネスは、アルケーを「空気(アーエール)」だとした。これは一見するとアナクシマンドロスからの後退に思えるが、実は巧みな設定なのである。というのは、「ト・アペイロン」がその無規定性により超越的になっていたアルケーを、「空気」という経験可能なものに還元したことで、「ト・アペイロン」が有していた無限性を毀損することなく検証可能にしたということである。そして、アナクシメネスは、吐息が、口唇を小さくすれば濃密化によって冷たくなり、口を大きく開けば希薄化して熱くなるとした。ここに、経験的実証の精神がみられるように思う。しかし、やはり彼も物活論によってアナロジカルに世界を捉えていたので、気息、すなわち呼吸にみられるような循環をつうじての理解をした語りを残している。

われわれの魂は空気であり、それがわれわれを統括しているように、コスモス全体をプネウマと空気が包括している。

(アナクシメネス断片二)


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