法と文明の治療論~「サイコロジー」としての治水灌漑について~
今回は、個体的にも社会的にも、「治療」や「分析」といったプロセスを、意志(Wille)、すなわち欲求の再分配プロセスとして規定する。このことは、たんてきに文明の起源史を辿ることがそのまま七曜制と法制史のサイクルにおける経験の反復となるような文化を記述することになるだろう。
また、本稿では「基礎づけ」という問題にも少し入り込んでみたが、そこから、インテリの故郷喪失とその活動である評論にみられる過度な自己言及性に進んだ。
だから今のわたしの主要なテーマ性は、円環をいかに螺旋にして進行性を与え、自己も社会も調子をくずさずに先に進んでいけるか、ということだろう。
わたしは、本稿で、空海やシェリングや河本の不思議な共通性に決着がつけられたと感じている。神話の反復は精神に非ず、宇宙は頗る身体的な調和を保って加速膨張している。
神話の発生と個体の治療過程の並行関係
個体の治療は、まず当人か周囲が主体に何らかの「困難性」をみてとるところから始まる。そうして、例えば民間療法でも医者に診せるでも、少なくともなにがしかの専門家との治療作業に入る。ここにおいて例えば、現代の主流派精神医学では、アメリカ精神医学会に準拠してDSMによって診断を下し、それに沿って主に投薬を決定することになっている。このさい、アメリカに準拠した精神医学にあって、実測的にわかることは、あくまでも主体(≒患者)の思想や信仰には非介入に進めるということである。病棟治療においても、健康な食事や散歩、音楽療法はみられても、宗教性のある治療や読書が遂行されるという話はみられない。この、謂わば「政教の分離」がこんにちの精神医学の基本となっている。
元来文明社会においても無文字社会においても、霊的な威力で治療を遂行していたことは明らかであり、これに「科学革命」が起こって以来相転移したようにインテリから大衆まで、しかも近年になって、広範に即物的な治療が好まれるようになってきた事態は、もっと探りを入れなければならない事態のように思う。とうぜん科学・技術による薬学や神経諸学問の進展には目覚ましいものがあり、「健康」を価値序列の優位に置く社会的に承認された規範にあっては、重視すべきことであるが、一方でその過度な即物性や合理性、また「わかりやすさ」が、人々にそれらに過度の期待を寄せさせ、その彼方にあるオーダーメイドの経験や伝統ある共同社会の経験への感度を鈍らせているのではないかということは、実測的にも経験則的にもよく察知されている。
精神分裂病(現:統合失調症)関係の治療と学術で権威であった中井久夫氏は、著書『治療文化論』の中で中山ミキや出口ナオや北村サヨの例を挙げ、また、
と述べている。
重要なのは、たんなる遅れた時代の儒教知識人が言っていただけのことなどと、誤った歴史意識から過去を裁かないことである。あくまでも人間関係中心の、父権的かつ合理的な儒教知識人の医学に明るい者たちが、公的なプロセスをつうじて「キツネツキ」を公式の病名として採用していたという、当時の経験に沿った読みをすると、いかにそのオフィシャリティが重要な事態であるかがわかる。それについて、中井は、「彼らにはことの真実がだいたい分かっていたのではあるまいか」とコメントしているのである。
中井久夫はweb上でサーチしただけでも少なくない伝説とその人柄を伝えるようなものがあるので、実際にはかなりの「やり手」だったのだと思うし、観測したかぎり「治せる人」には文化領域に明るい人が多い。
シンギュラリティ論において想定されうるところの管理の楽園については、或いは「ホモ=サピエンスの名誉ある撤退」について、また加速主義については、それ自体関心を寄せる事柄ではあるが、社会論や病理学の位相にあっては、現段階では考えないことにしている。
安倍晴明の伝説や、近年では『天気の子』にみられるように、キツネが「晴れ」と、すなわち「治-水」と関係していることは先ごろの『天気の子』の評論で明らかにしたが、文明の発生機序において治水灌漑が積極的な意義を果たしたことはご存じのように世界各地の神話に投影(プロジェクション)されている。事例をとろう。
ノア(慰め)は神の前に正しい人であった。しかし大地は堕落していた。だから神はこの堕落した大地を洗い流すことを決意する。しかし、ノアは正しい人であったので、神から方舟をつくるように命じられる。方舟には、ノアの家族の女たちとあらゆる生き物のつがいを入れることも指示される。
さて、全て指示された者が方舟に入ると天からの大水によって洪水が起こる。洪水が終わると、水が引き、それを確かめるためにノアは烏を放つが、戻ってくる。まだ水が引いてない。そこでしばらく経って「鳩」を放った。鳩は聖書において聖霊や平和の象徴である。鳩は、まさに「オリーブの葉」をくわえて戻ってきた。水が引いてきたのだ。そうしてしばらくして鳩を放つと、再び戻ってこなかった。
ノアが外に出て動物を裂いて焼き、宥めの香りを天に送ると、神はその香りを嗅ぎ、「虹」を目印にした契約を立てる。祝福の契約である。
聖書において『ギルガメシュ叙事詩』にその原型があることでも有名な洪水神話である。すなわち、ノアは、あたかも神がひきこもるように、外界が清まるまで一旦ひきこもるのである。そうして最初に世界に広がっていったのが「鳩」というのもただちに象徴的である。オリーブからは油がとれ、それは「油注ぎ」=メシア=キリスト、にも使われていたので、当然これも「聖霊」と関係している。実際のところは、あのオリエントの乾燥地帯にあって頭から油を注ぐのは、対象を乾きから保護するような意味があったとされている。
日本神話を見てみよう。
イザナギからアマテラス、スサノオ、ツクヨミが誕生するが、スサノオは「母の国に行きたい」と泣き喚いて癇癪を起こし、海を治めないので、イザナギから追放される。高天原でも暴れ、日本に下ったスサノオは、八つの谷と八つの丘にまたがるような八つの頭と八つの尾を持つ大蛇を退治することになる(『ヨハネの黙示録』に酷似)。蛇を酔わせてめでたく退治に成功したスサノオであったが、退治に使った剣はアマテラスに返上する。
ここで精神分析関係の文化人がよく指摘するのが、日本における母子密着である。この点が、「竜殺し」の西方文化と東アジア文化圏の違いといえば違いであろうが、実際には、治水灌漑という点で一致しているし、見事にスサノオの「精神の治水灌漑」が遂行されている。
強いてユングではなくラカン派を援用すると、理論的に「<法>の導入」が更新されていくことが主体を更新する。通常考えて、文明社会に法が導入される契機は、たんなる独占ではなく、富の再分配による集団の持続志向であるはずである。或いは、自然選択説のような見方をとれば、そうした集団が生き残って今に至っている。厭世し出生を悪と見做す傾向の強かったグノーシス主義は数世紀で運動が終わった事例がある。産出を祝福する集団が生き残った結果の現代である。産出を言祝ぐことは、たんに自らの子をそうみるのではなく、自己を言祝いでいるため、自らにおいて福音となるカラクリがある。
ところで、「富の再分配」は、心的なエネルギーの再分配にも置換しうるし、れいの「精神の治水灌漑」にうまく適合する。一般に、何らかの活動や分泌、或いは記憶のはたらきが他の活動と比べて過剰な場合、それは病理をもたらす。
さて、こうしたさいに、たんに通りのいい理論だけを語るのは机上の空論であって、実際に病理に探りを入れる場合、「事例」を積み上げなければならない。事例なしに社会や疾患を語ることは学術的態度に反したたんなるおしゃべりである。
精神の病理の分野の場合、内科的に診るタイプのプロとはやっていることが大きく異なるので、かえってそうした専門的な症例が事実を曇らせている場合がある。その場合、「やり手」であるような専門家の集めた事例か、一般の体験談である。一般の体験談をいくつか見てみたが、基本的に根本治療に至っているものは、疾患を問わず少ない。一方で、すぐれた専門家の描像は特殊に偏りすぎている。誰もが主体的に病理と向き合う知性を持っているわけではない。しかし、そうした秘教的なプロセスのメソジックな公共化は要請されるべきところである。但し考量しなければならないのは、実体験から話すと、過度に無駄を省くとかえってうまくいかず、道路の周囲には「遊び」の部分が設けられているがあれが必要であるように、余裕を持たせた式の設定が必要である。科学的方法を身に着けることはそれ自体大切だが、その人たちのある種の筋の悪さは、思考様式に染み付いた定式化の拘束、ゆとりのなさにも求められるのではないか。
神話は「ノイズの少なさ」にだけその特性が求められるのではなく、畔や貯水池のように、「無駄とは別様の余裕」があることがその特性である。時間がないからと時間を節約しようとしたらかえって全てしないほうがましだったということになったことはないだろうか。忙しない時代であるが、そうした世人とは距離をとって、敢えて退屈のなかで進んでいくような時間があってもよいのではないかと思うし、血の通った伝統は生気のないシステムよりもいっそう公益に資する。
げんに私が実践的に実験しているように、祈りの信仰は本当に「聖霊感覚」を喚起するものなのだから、実はここで経験を細かくして見分けなければならない。はっきり言うと、現代の若者ほど病理的妄想と宗教を一緒くたに見てしまうが、実際には全く別様の現象が進行している。妄想の要件は認識論の対応説で測るものではなく、社会性と、主体の「行為」の「均衡逸脱」によって測られる。既成宗教は文化体系に組み込まれており、また明らかにしてきたように想像以上の類似のはたらきがみられるので、洋の東西を問わず敬虔な人間や伝統的文人の使用している経験のモードには近いものがあるように感じられる。だから、かりに信仰が対象の実在を欠いていたとしても、生じる経験が近似していれば、もし実在もはたらきもなくても、否定神学的な御名じしんが主体の行為に均衡と社会性をもたらす。
言語性知能が高ければ動作性知能がいらないという話にはならず、主体のカルチベート(文化=耕作)には、必ず、例えば古典の読解をするにしても風景画を描くにしても、一つ一つが手続き記憶の数珠つなぎであり、動作性のプロセスを連字符的体系として習得することを必要とする。そうした文化体系の変数に「柔和さ」や「鷹揚さ」があることは、個体の固有性と役割の分担を考えたとき、間違いなく半ば必然的に生起して持続してきたものであることがわかる。
國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』で、「定住革命」説に依拠して、ゴミ出しなどを習慣として反復しなければならなくなったのは「定住」が始まったからで、むしろ「定住」から「農耕」も発生したと述べており、そのことで、個体もまたゴミ出しの習慣化などの「革命」が必要だとするいわば「二段階革命」説を採っていた。通常考えて、「ゴミ出し」は広くとれる。すなわち、燃えるゴミの回収日が一週間単位で決まっているように、多くのことがこの「七曜制」のサイクルで決まっている。七曜制の日本における起源は、弘法大師空海が唐から占星術書の『宿曜経』を持ち帰ったことにはじまる。ここには明らかに、満濃池で治水を行い、「身口意」を唱えた空海の才気ある知恵が込められている。サイクルとしての「反復」の感度を掴むと、太陽系自身が銀河系を公転しているようなイメージに同期することになる。
ジル・ドゥルーズは『基礎づけるとは何か』の講義において、モーセの律法を事例に挙げ、自然のままに生きることで自然の欲求をかなえられるとするキュニコス派を批判し、儀式やしきたりによって、いわばななめに進み、「神話を反復すること」=たんに経験することで、自然の欲求に適えていくという説を採っていた。
治水灌漑のアナロジーと法の再分配機能の同致、ということは、イメージ的に言えば、心的エネルギーが自ずから適応的に振り分けられるようなことで捉えられる。そうすると、案外個体の依存症や自閉性も訂正がきくのではないかと思うが、そうするためにはカレンダーのサイクルを活用して儀式やしきたりを再整備するとか、または個人でも良質な長く読み続けられる古典を読むなどの、工夫が必要となるだろう。
法が定住と関係しているならば、定住を強いられ、また自ら望んで定住を強いているわたしたちも、定住と文明のアナロジーで考察を進めていく説に依拠することは望ましい態度ではないだろうか。言ってみると、都市に暮らそうが山で隠遁生活を送ろうが、基本モデルが定住であることに変わりはない。だから、「治水灌漑」は農耕というよりもおそらく定住に深く関わっている。江戸が数多くの治水事業で成立して今に至っていることは有名だが、全国どこでも、つい近代化が進むまでは、川が流路を変えることは普通のことだったと伝え聞く。たとえ採集や漁労の生活であっても、治水ができなければ定住には適わない。そして、そうした社会の持続可能性にはおのずから再分配の必要性が要請される。近代以降しばしば喧伝される教訓がある。すなわち、「天才ならなんでも許され、大きな分配を与ってもよい」などと考えるな、というものである。ここには、先に述べたような事情が絡んでいるように思う。最近は「何者かになりたい」という思いからなんにでも手を出してしまう、つまり対象が好きなのではなくナルシスティックな憑依関係をもっている者が多いらしいが、むしろ必要なのは、自分の領分に誇りをもって自分ができることを余裕のある範囲で行うことである。意味を伴ったノイズの侵入を容易に許してしまう環境が形成されていることが要因であるようにも思う。
固有のプロセスが所属する社会の望ましいサイクルに沿うこと。
これが現時点でのわたしの立てる命題である。
基礎づけとしてのふるさとと知識人
精神科医の野間俊一氏が、「信じるということ~精神疾患にみる宗教性」という論文を書かれている。非常にうまくまとまった論文であったので、ここで紹介して、展開してみることにする。
ここで野間は、「ハイマート(注:ドイツ語の「故郷」)」という語を用いて、自己の存在の基本的信頼の根拠を埋めるものとしての、日常の宗教性を述べている。人は常に不信に晒されるから、それを乗り越えるために宗教性がふっと立ち現れるというような論旨である。
一方で、「ハイマート」の含意といえば、マルティン・ハイデッガーが論じているようなインテリの「故郷喪失」である。日本で長らく社会学をリードした新明正道は、その様子を
と述べている。1938年のことである。
一般人における通常の基礎づけは、例えば、地元の連帯感、親子の類似、家族の物語などで遂行される。しかし、ことインテリにあってはこれらがあまり機能しない。そこで、対象を神話領域や文化領域、ひいては天下国家、文献(テクスト)などに移行することになる。この感度は「文献父権主義」と言いうるだろう。先の新明の嘆きも、(本来知識人は神話を有するべきなのに…)というように聞こえないだろうか。
しかしどのような人間であれ、生物種ヒトからは逃れられない。だから当然、脱却したと思っていた親からの性質によって足をすくわれるようなことは起こりうる。わたしは低血圧で、母親から家系的な低血圧を聞かされていたのだが、それを全く無視して生きていたら、気づけば大きな損害を被っていた。こうしたことにならないためにも、早い段階で親の生理的な方面での忠告は聞いておくべきである。どう取り繕おうとも、低血圧はよく遺伝するし、統合失調症の子の発病率は一般の10倍であり、一卵性双生児のこの疾患の一致率は50%と言われている。だから、社会適応はそれとして大事なればこそ、独自の経験の仕組みを構築することが大事であり、そうすることによってかえって社会性を必要とする場面での適応性が高まるものである。
通常、一般社会のプラットフォームから登場してくる知識人は、その内的な機構を、それまでの仕組みから組み替えなければ不適応をきたすようである。例えば、これまで話したように、伝説上の安倍晴明は、母がキツネであったがゆえに能力者であった。しかし、大陸ヨーロッパや大陸中国の文系知識人は父権的機構に従属する姿勢のなかで総合的人間として幅広く活動する。こんにち、地理的な制約が意味をなさなくなってきているなか、戦後を最も支えていた合衆国の政策に陰りがさしている。わたしは確かにアメリカやドイツなどの科学性の国の底の強さを信じて疑わないが、世界総体としてみた場合、今後数十年という短期的なオーダーでみたときには、アメリカの強さは大いに怪しむべきである。しかしもちろん、数百年単位でみたならば、全く異なるしかたで取り組まなければならず、そのことはここでは問題にしないだけである。だから、現段階の公共的健全性は、おそらく総合的な文人への父権を要請している。経験は反復可能性がないとその手続きも持続しようがないから、真にそうした仕事に就くべきは、職業に関係なくそれを好んで行える者であろう。日本思想は新しい文人を要請している。
文化依存症候群と評論の自己言及的依存症について
中井久夫は『治療文化論』の中で、普遍症候群-文化依存症候群-個人症候群という三つの位相を挙げている。
普遍症候群とは、地域や時代に関わらず、理念的にはどこにでもみられる病気のことである。しかし、これ自体が西欧近代の見方である可能性も、もちろんあるが。
文化依存症候群とは、その文化圏特有の病気のことである。例えば、中国にみられる、ペニスが自分の体の中に入ってきて縮んでなくなってしまうとする「縮陽症(コロ)」、日本の「キツネツキ」などが挙げられている。
個人症候群とは、その名のとおりであるが、これは、一般に医者というよりもその患者の「熟知者」によって見出され治療される。
そして、中井はこれらを相(アスペクト)として捉え直し、一人の人物の病が深まれば深まるほど普遍性が増していくということを見出している。例えば、どの地域でも、分裂病の発病期や回復期には、患者はその文化のステレオタイプの絵を描くそうである。そして、病が深いときはそうした絵ではなく、どの地域でも同じ様な混沌としたものになるそうである。このことは、ユング心理学を想起してもらうとわかりやすいと思う。ユング心理学は世界各地の神話から共通の「元型」を見出すが、それらは文化的な表現型になっているというよりも混沌としているだろう。
ところで、批評家の東浩紀は『動物化するポストモダン』の中で『うる星やつら』や『セーラームーン』を代表的例として挙げ、日本のアニメに多くの巫女キャラが登場することを指して、敗戦によって断絶しアメリカ化した日本文化の連続性を誤魔化すために登場しているアイテムである、という趣旨のことを述べていたが、しかし、そのアイテムが機能していることが既にして、実は、たんなる疑似日本という誤魔化しではなく、日本文化の原像が伏流し続けていると考えるほうが妥当ではないか。吉本隆明の『共同幻想論』でも「巫覡論」や「巫女論」が論じられていたが、日本の評論において、東の場合殊更、近代文学においては作家がオリジナルな作品を発表するが、その後の時代は異なるとして差別化しようとしているが、語られていることは、吉本のように魏志倭人伝や芥川龍之介を題材にとろうと、東のようにサブカルチャー作品やアニメ映画を題材にとろうと、変わり映えしない印象である。わたしも先回『天気の子』でそうしたことを行ったし、知り合いの評論人も「山上徹也」や「バタイユ」を題材に活動を行っているので、あまりにも変わり映えがしない。
わたしはこの体質の人間が一般的に通過するらしい精神的に危機に際して、「やまとの精神史」を描く、などと意気込んでいた時期があった。それは、縄文時代を経てヒミコのヤマト国にはじまり戦後日本の自民党派閥史に至る予定だったと思う。そのさい、公言していたなか、歴史好きの後輩から、「キリスト教はどう描くんですか」などと言われたので、わたしは思いのまま「マリア観音を軸にする」などと言っていたような気がする。そしてその時期、やけに大阪万博の岡本太郎の「太陽の塔」や、それに登ってしまった「目玉男」に注目していた。目玉男に関しては、
ということである。しかし当時のわたしは殊更「カルチベート」を、すなわち「文化にされる」ことを嫌っていたのである。例えばカウンターカルチャーやサブカルチャーや異端思想などがかえってその文化の古層に近づくことはよくみられないだろうか。
普遍が半ば生物的に本質的に規定されており、文化が構築的であることは言うまでもないが、実は、個体性は普遍と文化の上にさらに構築的である、とは考えられないか。我々は文明に生きているから、構築的であることがそのまま健康の指標になっていてもおかしくはない。純粋に哲学的な営みは、中間項である「文化」を介さずにそのまま個体と普遍を架橋するところがあるが、この営みは、それに耐えうる者だけに許されているように思う。最も固有なものと最も普遍的なものの同致、これが哲学を規定する本質的な野心ではないかと思う。すなわち、経験論は明らかに正しいが、合理論や超越論的哲学はまた同時に正しい。
例えばわたしが「ユング」を語ることをつうじて実は自分自身の来歴を語っており、ユング心理学の議論にそのようなウロボロス構造の指摘が含まれるように、人文系の評論家は往々にしてこうした自己言及を請求している。こうしたことで得意になっても、基本的に「私は大人になってもおしゃぶりがやめられません」という自己紹介をしているようなもので、なんの展開可能性もない。
この点で、「文学」と「評論」の営みの文化依存性は強いし、「アニメ映画」などを見ればその文化依存性の高さがよくわかる。「哲学」はいわば「チンピラ」でないかぎり「文化型」を相手にしない。ここでも、「最も普遍的なものは最も空虚である」というヘーゲルの『精神現象学』での言葉が参考になる。普遍的異常は考えようと考えまいと個体に浸透しており、神経発達や家族歴の面など、どうしようもない面もある。しかし、構築されてきた文化はその異常性について個体に矯正を強いる。これまで述べてきたように、構築的な文化から離れようとすればそうするほど、かえってその文化の古層がその個体や集団に噴出する。これを回帰願望といえばそれまでだが、黄泉比良坂でイザナギが生命の象徴であるぶどうなどを投げつけながらイザナミから逃げ、入り口を岩でふさいだ後、高らかに多産性を宣言したようなことは、健康に生きるための作法ではなかったか?ドゥルーズは言う。「「試練を課そうじゃないか。ドラゴンを殺してこい」と。」と。
必要なのは、構築された文化に住まうことに安らうことではなく、そこから引き出して新たな時代の文化を構築していく媒体となることである。経済的な「物産」の位相と文化的な「idea」の世界はカップリングして進行しているからである。わたしたちが社会関係から逃れられないならば、文化関係からも逃れられないはずである。しかし、主軸をどの文化関係に据えるかには、相互選択が残されている。
おわりに
神話の発生過程は法の発生過程と一致するだろう。それは「文字の独占」というこんにち的時代にも深く関わるからだ。「文字の独占」は昔の話ではない。であるがゆえに、「富の再分配」には、改めて言うが、多少の危険を冒してでも子供たちに「文化への参画」を果たさせるための「仕込み」の使命がある。稔り豊かな小麦は多いが、パンには良き種が仕込まれなければいけない。普遍症候群の種が文化や個人に仕込まれている可能性がある。
「産出」はたんに未来性ではなく、過去現在未来いずれをも祝福する変数であると考えるに至った。そこで、必ずしも子孫繁栄という意味だけではなく、ideaや公益など、数多くの「産出」が想定されると思うし、自己の為すべき天命としての産出に誇りを持つことができれば何よりのことだと思う。それがわたしたちじしんを祝福するからである。
2024年8月1日
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