経験の深みとその喪失

 最近の私は、どのような経験を提供してくれるのかによって読む本を決めている。したがって以前のような主知主義ではなくなったのである。明らかに、度合い的にではあれど深い経験を動かしてくれる本というのは世に多くある。だからこそ危なくもあることは明記しておきたい。
 私はこの頃、孤独感を解消すべく、孤独志向を提示して、そのような経験を提供してくれるような本をいくつか読んだ。そうすると、本当に自分が変わっていくのがわかる。本は、必ずしも言われるように古典ばかりを読まなければならないわけではなく、むしろ馬鹿みたいに読みやすい本の方がよかったりもするし、さらには新しければ新しいほどよい経験の領野もある。必ずしも近代文学の名著だけが深い経験を善く動かしてくれるわけではないのである。

 全体から切断された切り抜きによって聴かれる音楽はそれ自体では貧困である。私はMADなどは好きであるが、しかしそれは部分としてではなく、全体の協働における新しい全体性を提供しているから好ましいのである。切り抜きにおける貧困の音楽とは、例えば歌劇から切断された勇ましい音楽である。しかしそれも集会のプログラムに配置されるなどした場合、マッドではあるが新しい全体性を獲得する。それは新たな生成の生起をもたらす経験である。

 全体論は画一化と結合した場合においてはじめて問題を生じさせる。あらゆる健全な多様性の喪失がそれである。だから、大きな物語としての人類の経験に隷属するのではなく、あくまでも個体としての自己形成の経験を持続すればよいのであって、そこに基礎づけはいらないのである。個体の全一性にのみ全力を注ぐ生き方は、注意を促して言えば個体の生存を自己目的化せず、かりに自らの個体をもっての自らの美の完成として、全体に収斂されずに死を完遂するのであれば、それはそれで成立しているはずである。補足すれば、自己の滅却はつねに無限なる世界に開かれた滅却でなければたんなる不純な排外性と表裏一体の全体論であり、それは一つのローカリズムであり普遍ではない。私はそこに美を見ないし、例えば特攻のロマン化には違和感を持つ者である。或いは自己言及的であるが、私のこの文章ほどにはその何たるかが見え透いてしまっているのである。

 私は、楽器もできずスポーツも苦手な私は、かろうじて書くことを通じて経験を喪失しないという覚悟を新たにするのである。経験の喪失が叫ばれているが、私が生きた人間生活をしている限り言葉から経験が取り去られることはないのである。むしろ経験の深みに入ることのできない者が大量殺戮のように経験を殺そうとしているのである。経験の殺害者が行っていることは魂の殺人である。魂の殺害者に対しては、魂の生存者として、その宣戦布告に対しては、完全勝利を得るまで抗するつもりである。

2023年6月9日

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