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《自己存在探求の旅路》無意識、宇宙、他者、霊性

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生きている事、死ぬ事、死後の世界、神話、意識、無意識、魂、霊性、宇宙、星、素粒子、自己と他者。自分が生きてる意味とその存在、その世界について探求していくマガジンです💫💫💫💫
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#人間

最上和子とは何か!?「身体のリアル」押井守(弟)最上和子(姉)を読んで

最上和子とは何か!?仰々しいタイトルを付けてしまったが、結論から言うと(勿論本とネットで見て読んでる印象の結論だ)、 生きながらにして死のうとしてる人 生きながらにして死の空間をこの世に 出現させようとしている人。 「身体」を通して。舞踏という表現で。 それが「最上和子」という人だ。 「見てはならないものを見てしまった」 最上和子は言う。 「身体には内的身体と外的身体がある」と。 舞踏というものを通して内的空間、ヌーソロジーやシュタイナーの言う《反空間》になろうとし

人間とは何か!? 自己と他者 宇宙の織り成し

四次元空間でワタシはひとつ。 の補足。 前回記事でここは全てと一つという感覚になると書いたが、それはつまり自分が感じているもの、思考している事、感情など、全て自己が起因しているものと一つになるという意味だ。 つまり、感じられる範囲、思考出来る範囲で自己と空間がひとつになっているという事。 では、世界に自分一人しかいないのか? となるとそうではない。 ここの部分で止まってしまうと独我論と言われるようなものになってしまう。 自己と他者。 自己の裏には他者があり 他者の裏に

潜在眼で心の深層を「見る」/卵の殻としての言語 -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(5)

中沢新一氏の『精神の考古学』を引き続き読む。 精神の考古学。 私たちの「心」は、いったいどうしてこのようであるのか。 私たちが日常的に経験している「心」は、よい/わるい、好き/嫌い、ある/ない、真/偽、結合している/分離している、同じ/異なる、自/他、といった二項対立を分別するようにうごいている。通常「心」というと、こういう識別、判別、判断を行うことが、その役割であるかように思われている。 しかし、こういう分別する心、分別心は、いったいどこからやってきたものだろうか。

高次の自我と低次の自我 霊我とは何か!?

今まで散々、自我だ他我だと書いてきたが、どうやら自分が書いてきた自我、他我は古来からの叡智を探る哲学者や偉大なる霊視能力者達からすると低次の自我のようだ。 低次があるということは高次の自我がある。そしてさらにその先に霊我があるという。 ぼくは元々このあたりはヨガ哲学から出発した。 自我と真我がを一つにすること。 それがヨガの意味繋ぐということ。 ヨガの目的であるサマーディに到達するということ。おそらくはその先に他者の魂との絡みと霊我なる段階がある。 この記事で答えが出るこ

詩的言語/サンサーラの言葉とニルヴァーナのコトバの二辺を離れる -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む

しばらく前のことである。 「人間は、死ぬと、どうなるの?」 小学三年生になった上の子が不意に問うてきた。 おお、そういうことを考える年齢になってきたのね〜。と思いつつ。 咄嗟に、すかさず、大真面目に応えてしまう。 生と死の二項対立を四句分別する。 念頭にあるのはもちろん空海の「生まれ生まれ生まれて、生のはじめに暗く 、死に死に死に死んで、死のおわりに冥し」である。 こういうのは子どもには”はやい”、という話もある。 が、はやいもおそいもない、というか、はやからずお

”心”の表層を剥がしていくと -中沢新一著『精神の考古学』をじっくり読む(2)

ひきつづき中沢新一氏の『精神の考古学』を読みつつ、ふと、松長有慶氏による『理趣経』(中公文庫)を手に取ってみる。かの理趣経、大楽金剛不空真実三摩耶経を、かの松長有慶氏が解説してくださる一冊である。 はじめの方にある松長氏の言葉が印象深い。 苦/楽 大/小 何気なく言葉を発したり思ったりする時、「その」言葉の反対、逆、その言葉”ではない”ことを、一体全体他のどの言葉に置き換えることができるのか、できてしまっているのか、やってしまっているのか、ということをいつもいつも、「頭

ワタシの自我と魂の見つめ方💫ヌーソロジーの意識地図。(初投稿☀全くもって正月っぽくないけどこんな感じで今年も、いや今年はさらにバリバリ、ヌーソロジー道を進んで行きます!💫☀💫🌕💫と、思ったけど初日の出も入るので正月テイスト有りになりました。投稿間隔空いた間に思ったけど何のために記事書いて投稿するのかって一番は自分のためなんだよな。うん、自分の為。と書いてるうちに地震、飛行機。北陸地震にて亡くなられた方々のご冥福と被災された皆様にお祈り申し上げます。)

皆様、明けまして御目出度うございます。 復習と今年の目標。 ヌーソロジーの意識階梯、次元をもう一度確認するべく(自分の頭の整理のため)、イラストで人間の活動領域を書いてみました。ご興味のある方は新年早々ですが、こたつに入っておせち食べすぎて怠けた頭を刺激して頂けたら幸いです。 新年早々、元旦初日、驚きの地震がありましたが 自分が信頼できる形の支援体制が整ったら募金や支援物資送らせていただこうと思います。 洪水で住居、田畑が大被害にあったぼくがお米を買ってる山田野菜さん🌾↓

『神話論理2 蜜から灰へ』の最後の1ページを読みつつ構造分析におけるAI活用の可能性を考える -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(49_『神話論理2 蜜から灰へ』-23)

クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を”創造的”に濫読する試みの第49回目です。 これまでの記事はこちら↓でまとめて読むことができますが、これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?)いただけます。 この一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の神話論理を”創造的に誤読”しながら次のようなことを考えてきた。 即ち、神話的思考(野生の思考)とは、図1に示すΔ1とΔ2の対立と、Δ3とΔ4の対立という二つの対立が”異なるが同じ”ものとして結合すると言うために、β

精神的宇宙な時代の流れ 面白ろ驚愕ヌーソロジー篇🌟ぼくらの意識はシリウス次元に在り!!💫💫💫😆

今回はヌーソロジーというかヌーソロジーの元になった冥王星のオコツト情報を元に記事を書いてみます! 既に怪しい🤣わかるわからないとはまた別のオコツトワールド💫💫 ですが、魅惑的だと思います~🌟😆🌟 ヌーソロジーの面白さはここにあり!? ヌーソロジー関連の本やブログ、動画を見ていると必ず出てくる冥王星のオコツト。 一体全体なんなんだ!? オコツトとは〈真実の人間である〉 ヌーソロジー提唱者半田広宣氏(67歳くらい?)が20代の頃7年間に渡ってチャネリングで交信した冥王星のオ

GPT-4に秘伝の?神話分析のやり方を教えてみた -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む【番外編】

GPT-4は神話を分析できるだろうか? * * この一年ほど私は下記マガジンにまとめている一連の記事を通じて、レヴィ=ストロース氏の神話論理を”創造的に誤読”しながら次のようなことを考えてきた。 神話的思考(野生の思考)とは、下記図1における、Δ1とΔ2の対立と、Δ3とΔ4の対立という二つの対立が、”異なるが同じ”ものとして結合すると言うために、β1からβ4までの四つのβ項を、いずれかの二つのΔの間にその二つの”どちらでもあってどちらでもない両義的な項”として析出し、こ

空間認識変えたるで〜💫💫💫自己の顕在化を目指して!!ヌーソロジー勉強中〜🧑‍🎓💦自我とは何かも考えるぅぅう!!💪(๑•̀ㅁ•́๑)✧ 4000字、長いです😅💦

平面世界から抜け出した!と、書いてから1か月弱。その後3冊のヌーソロジー本を読み、ブログ等読み漁り、空間を今までと違う見方で捉える試みを繰り返す。 日々精進である。 ぼくが24時間世界が平面に見えるかというと、そうではない。殆どの時間は元通り平面世界は立体的に見えてその中に自分を落とし込んでしまっている。 落ち着いた氣持ちで意識しないとなかなか出来るものではない。 自分が動いたらまず無理。 一番わかりやすいのは車に乗ってる時。 自分は動いておらず、景色が前からやってくる。

タロットカード「節制」の水

今回の記事は先日の「タロットと流しそうめん」の記事の補足…蛇足みたいなものでしょうか? とりあえず、書いていきます。 節制のカードの人物は両手に壺のようなものを持っています。 そしてその間に水が流れています。 この両脇の壺が人間の体です。 壺は土の元素で、グルジェフ水素で言うと、h768の土(肉体)ですね。 下向き太陽のh12が抱える下限の部分になります。 因みに、小アルカナカードのカップが壺の中身が水…と言うような関係と考えて良いでしょう。 つまり四元素の水は、土の要

風の剪定 水脈 大地の再生ワークショップは大地のプラーナヤーマだった💫💫💫

7月の第2日曜日、映画「杜人」を見てから行きたいと思っていた大地の再生ワークショップが近所で開催されたので喜んで行ってきた♪♪ 朝飯を食い痛風の薬を飲み、左手中指に湿布をする。移植ごてと剪定ばさみ草刈り鎌を長靴に投げ入れて車に入れる。お昼のカレー用のお皿とスプーンは持参なので大量の水とともにバッグに入れて出発! 10分後、到着。 正規のスタッフさんが既に道に立って案内してくれる。自分もお昼のカレーを奢ってもらう代わりに駐車場係りを引き受けたのだ。 ここから歩いてすぐのとこ

「悟り」「人という現象」に対する過大評価

「悟り」「人という現象」に対する過大評価について思ったことを書きます。 過大評価の類語を検索すると誇大妄想と書いてありました。 評価の過小・過大に関係なく、仏教ではこの世の全ては虚妄としていることを思いました。 「人という現象」において、日常の範囲で愛・幸せ・平和・精神的進化向上・栄枯盛衰の栄・盛だけを求める、このように自分にとって心地の良いコトモノを求めることは普通です。 私も、月は綺麗だと思います。健康でいたいと思います。金銭的に余裕だって欲しいです。願い事もあります