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人の身体に触れることから生まれるもの

ここのところ最近、仕事でもプライベートでも、誰かとの関係において、とても感情的になることが多かった。
感情的にというと漠然としているけど、、

仕事で対面する相手に、何とか自分のことを受け入れてもらおうと、子犬のような心境で気を使ったり、

この人は自分の事が嫌いなんだーと、ずっと感じていた人に、偶然にも共感する事柄を見てしまって、急に同情的になったり、

いつも優しい気遣いを見せてくれる人からのLINEや小さなギフトに、改めて幸せを感じて見たり、

ある人の努力だったり、健気さが愛おしくなり、”逃げ恥”のドラマではないけど、妄想でも思わずハグをしたくなったり、

先日、仕事の飲み会の時、後ろの席で、「石山(僕)さんは、繊細なのか?」という会話が聞こえてきた。「職場の人の心理をすごく気にしてるから、繊細ですよ。」という部下。はたまた「あの人、企画でグイグイ強引に仕事してたから、心臓に毛が生えてますよ。」という同僚。自分のことで盛り上がってくれていたのは、嬉しい事だ。が、

自己分析するなら、どっちだろうか。一対一での対面では、すごく共感力が高いと思うし、実際に会社で測定したEQテストは、かなり高得点だった。
また、逆に組織としての運営ではマキャベリズムのように独善で強引なところも確かにある。

基本は繊細でも、がさつさもあり、大局的には、人のことなど考えずに強引

つい先日、ある歌手が、ハイリー・センシティブ・パーソン(HMS)”感受性が特別に高く、心が極めて繊細な人”であることを告白し、「これまで生きづらかったけど、これは自分の強みだと思うことにした。」と話していた。

話がとっちらかってしまったけど、

誰かに対して、感情的に心が動くとき、さっきのハグしたいではいけど、たとえ男同士にしても、肩に手を添えようとしたり、逆に相手から肩を触れられたりとの身体的接触の発動があり、気持ちと一緒に顔が上気したのを思い出した。

たまたま、twitterで、身体論などを研究している伊藤亜沙さんが所属する「東京工業大学科学技術創成研究院 未来の人類研究センター」の企画。「あなたにとって利他とは」を考えるラジオを聞いた。

伊藤亜沙、若松英輔さん、磯﨑憲一郎さん、國分功一郎さんなど、哲学者や作家が、真っ暗闇の海で焚き火を囲みながら語っている。

この中で、伊藤亜沙さんがこんなことを言っていた。

https://www.fhrc.ila.titech.ac.jp/radio/

西洋哲学だと、他者というか人間には、健常者が想定されていて、
ここでは ”まなざし” というのをベースに自分と他者を考える文化がある。
でも、そこには、視覚障害者などは、入る事が出来ない。
手で触りあっている時や、接触し合っていることを前提とした時の自他関係を考えたいと思っている。
人の身体に上手く触れるって、すごく難しいじゃないですか。
失礼ではないやり方で触れる方法論を、我々は、ほぼ持っていないと思います。

この(触れる方法を)持っていなさが、障害者との関わることの難しさだったり、一方的に自分の正義を押し付けるような伝達系の関わりの原因になっているような気がするのです。
”まなざし”で考える自他ではなくて、”人の身体に上手く触れる”この触れた時に、そこに何が起こっているのか。ここから倫理を考えて見たいと思う。
伝達ではなく、生成的な関係の中で。

最近、誰かとの間の感情の共感によって、肩を触れたいような感情を覚えたときに、でも、何だか上手く触れることの出来ないぎこちない感情も同時にあったりして、そんな感覚を何度か経験したからなのか、
さっきの”上手に身体に触れ合う”という自他の関係性の話が心に留まっていた。

”まなざし”とは、相手への先入観かもしれないし、”まなざし”を意識しない、自然な触れ合いの関係って、どうしたらいいのだろう。

過剰に相手の心を読もうとする、忖度的な共感回路ではなくて、自然な身体への触れ合いからの関係による心地の良さ、握手とか、ハグとか、挨拶のように、衒いもなく交わす事が出来たらいいなー 

そんなメンタリティーをどうやって自分の中で育んでいこうか。



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