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#111アート を終えて。【第1章】孤独な10年間について

ーkotte及び私の孤独な10年間についてー

昨日はkotteの授業にヒロセが来た。ヒロセは最近kotteへ入った某大学文学部の学生である。「西洋美術史・後期 Ⅰ章①,②」の受講をAM,PMと1日通しで受講する目的だった。

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しかし、目的は①までしか果たせなかった。あれよあれよと、20世紀初頭の美術シーンの展開から、ヒロセの周囲(大学や友だち)の話へと変移した。要は話が外れたのである。だがそれを話が外れたと言葉にしてしまうのは失礼である。印象主義から後期印象主義、表現主義の始まりも、その他美術史というのはいつだって似通った思想を持つ「友だち」であったじゃないか。価値観がまるっきり合わない人と友だちにはなれないよね。それに今回のヒロセとの議題(問題提起)の共有上では、前述した私の観点[「二分化した芸術」後藤てるみ,2019,12.5,noteにて]においての「アッチ(のアート)」と「コッチ(のアート)」が主要であった。

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上の画像(テキスト)を参考にした上で。

それは#111アート
(ここでいう#111アート とは,“Around kotte”及び“昨今の社会的事情”そのものの概念であり,単なる物理的なイベントのことでは無い)
でも明らかなように、ヒロセとも「倫理と福祉」対「公の正義(ポリコレ)」が明確な共有テーマであった。
この話題になったのはなぜかというと、2日間を通したこのイベント上で、参加者から、あまりにも多く、この話題が尽きなかったからだ。
後述してみよう。今ここで hanapusaTV(花房TV,YouTube)の処女作[「絶歌」を熟読する」を例に挙げても良いのだが、もう少し後で挙げることになると思う。しかしなぜ花房くんの番組の初回がこの議題だったのかはよく解る。

21才であるヒロセにとってもポリコレとは、非常に切実な問題なのであった。

そこで、この問題に取り組むために、ここで一旦、幼児期の私自身の行動についての話を少しだけ聞いてください。ごめんなさい。これは#111アート のまとめなのか?と疑問に思うかも知れない。
しかし#111アート のまとめである。

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あ、これ成人式ですね。

すいません。幼児期の写真が押入れに埋もれていないかガサガサしてみたんですが、どうにも見当たらないんです。しょうがない。これだ、と出て来た写真が茅ヶ崎での成人式の写真です。
隣には、美術家として活躍中の やんツー が居ます。そうです。10代からのトモダチです。


彼は駅前に住んでおり、私は香川という茅ヶ崎の中では割と山側の、現在のkotte香川校に住んで居ました。


ちなみに茅ヶ崎という街は、海シティーという、内陸県からすると「海、めっちゃ近いじゃん!」という印象を持たれると思いますが、やはり人間が普段行動できる範囲って、半径2,3kmくらいですよね。そうなると香川なんて海から5kmもあるので、市内のひとびとから、「山側」と分類されるわけです。


正直、海が近くにあるっていう安心感と、夏になったら気軽に海水浴に行く、とか、ぼーーっとするためだけに海に行く、とか娘と日曜になったら砂浜ロードで江ノ島通過して長谷(鎌倉)の大仏みにワンシーズン何度も行っちゃう、みたいな。
海、そんな行かないんですよ。普段は。


やんツーはkotteを香川に構えた時、「もっと駅前にしないと」とか「アクセス悪い」とか言ってきたわけです。

はあ〜〜....○な奴。

だからやんツーは駅前アーティストということで、やはり何故彼があのような作品を作り続けているかは、私にとってはごく自然に理解できることで、アーバンボーイだったということです。


さて幼児期(保育園)についてですが、写真が無いので想像してくれるとうれしいな、と思います。鼻が悪いのでいつも口が半開きで、ボーッとしていて、友達は全く居なくて、0人だったと記憶して居ます。いつも一人で居ました。本当に友達が居なかったので、よくそれで平気だったな、と思いますが幼児期だから、保育園だから気にならなかったんでしょうね。だってそのころの保育園て、外遊び→給食→外遊び→17時にアンパンマン だったので。まあ。関係ないか。それは。






つまり



「花壇で毎日ダンゴムシを千切って遊んでた」



ということです。



ダンゴムシって、ぷちって千切ると、プチュ〜〜...て白い液体が漏れ出るんです。


あれ、飽きることなく毎日、やるんです。


だって、友達居ないから.......。

アリンコは千切っても何も出てこないんですよ。だから面白くない。


淋しい思いを打ち消すかのように、明くる日も明くる日も、毎日花壇へと向かい、花壇の縁と地面との取り合いを凝視しながら、つまんでは千切る。つまんでは千切る。

の繰り返しでした。

手を施すことにより弾け出るあの白い液体は、幼児期の私の興味の対象全てでした。

ただやはり淋しかったという思いは忘れることが出来ず、こんなことがありました。当時「ちーちゃん」というみんなから人気者の優し〜い可愛らしい女の子が居ました。私なんて、ちーちゃんと絡めるはずがない。だってちーちゃんと話したことってあるっけ??ないよね。ちーちゃん他の子と、毎日忙しそうだもん。いいな。私もちーちゃんやみんなと遊びたいけど、どうやって仲良くなれるか分からないな。そう思う6年間の保育園生活でした。

するとある時、私は珍しく砂場に行きました。砂場とは、私にとっては公の象徴で、なるべく行きたくないんです。いつも賑やかだし。だからいつも一人でずっと園庭の端っこの花壇にいたんです。花壇はそうなるとプライベートなわけです。それで、その日は砂場に珍しく他の子が一人も居なかった。いや、正確に言うと、「ちーちゃんしか居なかった」んです。いや、だから行ったんです、きっと。他の子居ないから。それで、私は何故かちーちゃんから背を向け、一人で砂遊びをしている(恐らくフリ)をしました。すると、毎日ダンゴムシを千切って遊ぶだけの絶対にキモい私に、、可愛くて優しいちーちゃんが、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、


「これ、つかう?」


と..................................!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

(..............................え..........................??!!!!???????!!!!!!)



「ザル」を貸してくれました。


砂場道具史上、ヒエラルキーのトップに君臨する、ザルです。


いつも、ザルは疎かフライパンやボウルなどの諸砂場道具を手にすることなんて出来なかった私に、「ザル」を貸してくれている.........。しかも「ちーちゃん」が.....。と言うよりキモチワルイこんな友達も一人も居ないいつも一人で居るまじでクソキモい後藤てるみに、人気者のちーちゃんが話し掛けた、しかも自分の持っているモノを与えてくれた、と言うことは、、、もう、、、、.........。


それが幼児期に一番嬉しかった思い出です。


ちなみにいつも「すーちゃん」と言う女の子と、殴り合い、取っ組み合いの、引っ張り合いの喧嘩をしていました。

いま思い出してもムカつくわ。


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ということで、ポリコレや倫理の話ですね。結果としての福祉も。

うーーんと、【閲覧注意】って言葉が出てきたの、最近ですか???

上記の写真も、閲覧注意なんですか????

私はキモチワルイのまじでダメ派なので、ダンゴムシ検索して 発作的に、生理的に、 うっ.. となりましたが、よく見てみると 王蟲 みたい。なつかしーな〜 よく千切ったなあ〜〜。


それにダンゴムシを閲覧注意にするって、ダンゴムシにとって絶対に失礼だもんね。(これは比喩表現です.この話自体が,今回の記事全ての比喩表現なのです)


それで、冒頭で話した文学青年ヒロセが、千切る話を「まじで可哀想」と言いました。


「???」私は、今子どもたちへの芸術諸々交流で連携している保育園の先生であるT先生が「その頃から科学してたんですね〜」と言ってくれて、救われたんです。


あれ、子どもと関わるの、私失格ですか????? 


【ちなみにダンゴムシを千切る(くらい)は、相対的にみて可愛いものだと後になって知りました。世の中もっと手の込んだ「科学実験」という名の「損傷」をおわせている人はいくらでも居ますもんね。男の人なんかは特に。有機体への人工的な介在により反応のない有機体へと変化する過程を幼少期では反芻していくのではないでしょうか。また、ここでは多くが「虫」という相手です。相手が人間になったら大変です。昨今の所謂「殺人ゲーム」が昭和期から現代への「実験代替」となったと考えます。また、愛玩性のある「猫」になると極めて犯罪の危険が高く凶悪犯罪予備軍とされています。これに関しては、恐らく「相手」が「対話」可能かどうか、が大きな焦点となるかもしれません。「魚」は対話可能でしょうか。注:私には何の意見もありません。悪しからず】


「ひどい」と言う意見。ああ。それじゃあこれってサイコパスか?私はサイコパスなんだ。って思い虐げられた気持ちでいっぱいになりました。だけど私は反論を呈してみました。

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「搾乳される牛(牛乳について)の方が酷いわ!」


と。さあ、これで意見のぶつかり合い、論破の仕合いになると、これってもう、Twitter現象ですよね?お互いの正義と正義のぶつかり合い。

私は搾乳まじで酷いなあ〜..と思ってアーモンドミルクや豆乳を買った時期もありました。二週間で止めました。私も子どもを産み母乳で育てたことがあるので母体の変化や女性ホルモンの変化については解りますが、妊娠して産まれてくる我が子を想像しながら牛舎で隔離され管理される母牛と出産の苦しみの末ようやくお腹の外へ出た可愛い我が子とまた離れ搾乳機を装着され我が子とのスキンシップを図ることも出来ない酪農業のことを想像するのは非常に簡単ですが、弥生時代以降、資本主義の人間社会下において、これに限らず何を今更、ってことなんです。血の伯爵夫人の方がよっぽど酷いわ。で、こう言うことをこうやってデジタル上で記録すると糾弾されまくりますよね。このご時世にこんなこと言うなんて、ダメなヤツ。とレッテルを張られます。



このご時世....。


「SDGs」

..........


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言い出したらキリがない。


みんなのために良くしよう。気持ちの良い世の中にしよう。ひとり残さず多様性を認めよう。ダメなヤツには論破しよう。言葉選びには気をつけよう。「神」対応しよう。男女平等にしよう。動物には優しくしよう。


なぜこのような社会システムが構築されているか?



〈仮説と現実〉

1. 基本的にはビッグデータにより未来の人間社会の構築を図る

2. AIによるビッグデータを利用し、未来の人間社会構築のための生産性向上を図る

3. Face To Face の機会を減少させ、ビッグデータ社会下のみにおいて生産性向上を図れるようにするため、「オンライン〇〇」産業又は仮想現実産業を益々活性化させる

4. ある思想による同意、共感、負の感情や負の体験の共有を、生身の顔と顔、表情と表情と(Face To Face)ではなく、「マインド」によって交信させ、益々「顔」(見た目への偏見)を要らなくさせる(マスク産業)

5.  4により「コミュ障」「メンヘラ(男女共)」化し、益々「負のマインド」を負の分類ごとのコミュニティーにより活性化、コロニー化させ、絶大な「公のエネルギー」(ポリティカル・コレクトネス=政治的妥当性)とさせる(管理しやすい,SDGsを達成しやすい)

6. 一般社会は地理的な垣根が無くなるので、世界中どこにいても、マインド(精神,思想)で繋がりを構築することが出来るような錯覚になり、マッチングアプリや#タグなどがより合理的、効率的な効果を産み「#パパ活」「#神待ち」などが(図らずも?)自然発生してしまう

7. 【例】「#パパ活」「#神待ち」をするとベッドの下に隠されているロープで首を絞められ殺される可能性がある.又判断が出来ない年齢の女の子の体が目的である

8. 民衆のビッグデータの過信により、情報操作が容易になり、あくまでもビッグデータ上の情報を膨大なデータ及び信頼性及び教養性のあるデータと決めつけ、一辺倒な人間となる=ロボット化

9. 現実の人間と人間との会話や場の雰囲気を全てサイバー空間上にアップロードすることは不可能であることから、ビッグデータとは名ばかりで本当は「リミテッドデータ」である

10. リミテッドデータにも関わらず、生身の人間の言う事を信じて貰えず、教養が崩壊する[=リリベラリズム(再教養主義)を提唱したい]

11. 専門書籍,専門分野研究者,大学教授などの現実空間の方が遥かにビッグビッグデータであるのにも関わらず、狭小なサイバー空間上のリミテッドデータを信じる余り、現実空間の教養崩壊が始まってしまい教養者がなぜか糾弾される愚かな社会構造となる

12. Face To Face が一番のリアリティであり、信用であり、友だちである



と言うことで、デザインは倫理と福祉の設計である。せっかくだからヒロセが受講する予定だった[西洋美術史後期Ⅰ章②]に、エコール・ド・パリ(パリ派)が登場したので、俗に言うパリ派の人々を例に「二分化したアート」の事情を説明した。

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前述したように、デザインとは倫理と福祉の設計であり、まさにSDGsのことであると言うことだ。これは奉仕に当たり、目的を達成するまでの道程も非常に大事である。


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[「ルポ 居所不明児童ー消えた子どもたち」石川結貴,ちくま新書]
という本がある。住民票も勿論無く、だが確かに国内で生きている、どこかで生活をしている、行政が全く把握できなかった児童のことを、「居所不明児童」と呼ぶ。本中では、その居所不明児童である男の子が、実の祖父母を殺害した経緯が書かれている。

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また冒頭で触れた[神戸連続殺傷事件]の犯人による元少年Aによる手記[「絶歌」元少年A,太田出版]についての、

「元少年A の内的動向及び人間形成の経緯」

について、hanapusaTV初回で3時間に渡って触れている。


ここで私がこれらタブーと見做される一連の出来事及びそういった(種類とは言いたくないが)人間が実在する、と言う現代社会において、何がSDGsだ?と言う話なのである。誤解のないように説明していくには言葉選びが重要だが、一つ言えることはこうだ。


正義を振りかざすことは誰かを殺すと言うことだ


少なくとも、私はずっとこう思っている。花房くんやあるしんがこう思っているかは知らない。私の意見です。

正義は戦争の始まりだ。

ユダヤ人虐殺と同じだ。

だからポリコレは怖いと思っている。

私には、何の正義もない。私は正義を語れるほどよくできた人間じゃないし、正義をかざしたとしても足元をすくわれることだらけ、それが正義だと証明できる根拠や知識や経験も35才の私には乏しい。


これを言うと嘘つき、とか思う人もいるかも知れない。


だけど


私は博愛主義者です。本当に誰かを憎むことが出来ず、糾弾して誰かと一緒に責め立てればスッキリするかも知れませんが、憎むべき相手である人間もしばらくすると悪い記憶が消され、憎むことが出来ません。本来的には、憎む「べき(正義)」なんでしょうが、もしかしたら相手も苦しんでいたのかも。とか自分がそれを誘発していたかも知れない。と考えるのが常なので、それで頭がいっぱいになり、苦しくなります。だけど愛を与えて、幸せなこともたくさんあります。あれ...でも さっき「すーちゃん」て子と殴り合ってた って話があったのでどうでしょうね....?

恐らく私は〈「新しい記憶」補塡型〉 なのも起因しています。記憶力がやたらと良い人間は、戦争を起こす傾向にあると思っています。

それは人からされた嫌なことをずっとずっとずっと覚えているからです。私は脳の記憶処理から、自動的に嫌なことを忘れるようにインプットされています。だから良い記憶だけが蓄積されていき、人々を愛おしく愛するようにセッティングされてあるのです。これは私自身どうしようもどうすることも出来ず、恐らく生まれながらの性質です。何を言いたいのかと言うと、


凶悪犯罪者

とか

あらゆる性質を持った人(ここでは異常性愛者など)

とか

著しく損傷した家庭環境で育った人が起こした殺人


にも、結果的な罪が伴っていたとしても、「罪と償うこと」と「人間形成の変移」は全くの別問題なんじゃないか、ということです。


本当の意味で一人残らず、と言う意味にはならない。そういった善悪でいうと「悪」の方に、逆説的に「愛」すなわち「芸術」が隠れている ということが言いたいのです。

つまり福祉や倫理観が欠如した状態に、上っ面の福祉と倫理という名前だけ持った正義が仮面を被って立っていて、本当の意味での福祉や倫理はそういった仮面を被った福祉や倫理の人たちには出来ない って私は思っている。絶対に正義をかざすから。それに世の中もっと本当に酷いことがあるっていうのをそういう人たちは知らないから分からないんだ。もっとエグいんだよ。

それが野島伸司作品に集約されているような気がしてる。


というわけでこれはSDGsのように上っ面な、しかしそれはそれで大事であろう社会構造までを救う「デザイン」こそが「アッチ(の芸術及びデザイン)」に当たる。

そして上っ面ではない最下層の、本当にヤバい人たちや本来的に目を向けた方が良さそうな事柄への芸術運動のことを「コッチ(の芸術)」と呼ぶ。





次です。


「パリ派」(通称スピ系)


これは恐らく一番保守であって、一番戦争が好きな人たちなんじゃないかと勝手に想像している。どう考えても人ごとです。まずそこへ関心がない。排他的でネグレクト的だ。今そんなことをやっている場合ではない。このパリ派の人々は社会への関心が薄いか、制作と社会とを完全に切り離して考えているので、制作自体を「癒し」と捉えるパターンが多いです。


本当の意味でリベラルであれば、こんなエコール・ド・パリなことをやるはずが無いじゃないか。

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しかしどう考えても、真っ先に世の中のことを考えていたら、こういった一連の表現に走る必要は全然無いし、いかにもブルジョワ的な「おパリ」な装飾で身を固める必要性は無い。芸術をファッションの一部だと勘違いしている。油絵の具を「所持してる」ワタシ。高価な絵の具やバリエーション豊かに絵の具を「所持してる」ワタシ。世界堂に行ってしまうワタシ。絵画を「ステキ」なものと勘違いしてしまう「パリ派」通称・文化村。スピリチュアルも大好き。オーガニックが正義。添加物は悪。ヨガ大好き。チャクラ大好き。オーラや波動が好き。とにかくオシャレ(この場合ロココ的文脈)なものが大好きでたまらない!!!!パッケージデザインも好き!〇〇セミナーも行かなくちゃ!

でもさ、フランスって、軍国主義だよね?単に素敵っていう理由で教養への関心がないまま消費するって、超危険思想じゃない?


しかし今日のスッキリ感は上記の画像でも明らかにしたように、未だやはり40%くらいなので、必ずしもそうではないかも知れない。

それにパリ派というのは、そういった「癒し」という自愛を尊重する美術エリアなので、パリ派とまでは行かなくても、優美的・甘美的な「女性的パリ派」ではなく、いかにも男性的な「カッコ良さ」を求める女性とは対照的な「男性パリ派」も現代には存在するのではないか、と推測をしておきたい。誰でしょうね。



それで、当記事【#111アート を終えて。第1章】-kotte及び私の孤独な10年間について-

がどう結びつくのか?と疑問に思う方がいるかも知れない。その答えはこうだ。

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私は田中偉一郎の作品(私にとっての現代美術の象徴)と出会った18才よりアーティストであるから、より良いアーティストになるためにkotteをやり、倫理と福祉に触れた。

理論によって「美術」という概念を体系化することに努めた。

ちなみにkotteは私の「作品」とは定義していない。



そのために、子どもをもうけた。

そのために、デザインに携わった。



しかし孤独だった。多くの美術の友だちと、〈地理的〉〈一般的なアーティスト活動的〉にそぐわない動き方をしていたのは確かだと思う。しかし〈美術史的〉には真っ当な動き方を絶対的にしている。私はもっともっと長い目で美術を捉えている。だから私の〈運動〉がBAUHAUSを参照していたことは間違いなかった。芸術とデザインをつなぐ。


しかし、少し変わったようだ。


明確な変化が訪れたのは2019年の7月頃だった。kotteへ通うシンガーソングライターのさらちゃん(さらさ)がArt Center Ongoingへじゃぽにかのカラオケ館の展示に行ったり、奥多摩美術館へ行くようになったり。そしてkotteのゆうこりんや多くの受講生がそれら前衛的なアートを切に欲している様子を目の当たりにするようになった時に、ふと

「芸術って何だろう」

って思ったんです。


10年間の孤独から解放され、わんわん泣きました。


そして本来的に私が居た居場所は、「コッチ」だな。

って思ったんです。何というか、家族みたい。

二浪で合格した時に、多摩美と武蔵美を選んだ違いみたいなところかもしれない。泥臭い「熱量」がキーワードだ。泥臭いか泥臭くないか。芸術に対しての初期衝動と、純粋性を大事にしてきた。あくまでも私の場合の話ですが。


ていうか「コッチ」で居続けるために「アッチ」を知る努力をしていた。何度も言っちゃうけど、私は18才から前衛アーティストです。だから、本当の意味での前衛は恐らく美術の中にはなくて、倫理や福祉の社会に絶対にある。だから「アッチ」と「コッチ」を行き来していました。


そろそろ戻らないと。


もう大体の武器は揃えた。


「アート教養過程」もあるし。


毎日幸せです。

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【第1章】で触れたかったことはこんなことです。なぜ花房くんたちがkotteへやってきたのか。なぜkotteをやっているのか。#111アート が勃発したのはなぜか。そんな経緯をまとめてみました。

#111アート の現場レポは【第2章】へと続きます。

すぐに書きますね。



[2020.1.17 後藤てるみ]