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畑 正憲『ムツゴロウの地球を食べる』(文春文庫、2011年)を読みました。

過集中型の突き抜けた人物から学びたいと思い、(破天荒、豪放磊落、規格外のエピソードに溢れる)ムツゴロウさんの著作を呼んでみました。テーマは食。思い立ったら次の日に世界の裏側まで飛んでいってしまうムツゴロウさんさすがです。やはりある種の欲の追求から世界は広がるのだと思いました。自分の見えてない世界を見せてくれる方には敬服します。でも、ムツゴロウさんが食を追求するようになったきっかけは癌で胃を切除され食べられるありがたさを知ったこととのこと…生きるとは・生きる力とは何か考える機会になりました。

本書より…

生きているのは素晴らしい。食べることは、何という歓びなんだ。食べ物はすべて生きもの。命をいただいて、その命が自分に溶け込んでいる。他の生命と同化するのが、食べるという作業ではないだろうか。
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そんな私に、天からショックが降ってきた。あるフランス料理店に行き、四百年続いているレシピで作るカモを食べた。なァんだ、こんなものかと思った。はっきり言って、おいしくないのである。
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その時だ、何かが頭の中でひらめき、体の中を電気が走った。経験が足りないこと、修行が足りないことを、衝撃的に知らされたのであた。フレンチと言い、イタリアンと言うが、それは彼らが何百年もかけ、継承し、磨いてきたものだ。それは文化であり、ひとつの天体を構築している。そうか、と思う。おまえは食の田舎ものであり、ここへは入ってくるなと、料理そのものに爪弾きされたのではあるまいか。私は、ショックを受け止めた。一念発起して、そのカモを食べに通い始めたのである。同じ席で、同じメニュー。ひたすら食べていると、少しずつ何かが変わり、十回めぐらいだっただろうか、ドカンと味が爆発した。勢いよく体にしみこんできた。感動し、涙が出そうになった。ここで泣いてはいけないぞと、自分を叱る。料理を食べて泣くなんて、おまえはなんと単純な奴なんだ。古希を迎えた今、あの夜があってよかったなと、しみじみ神に感謝している。もしあそこで、自分に素直になれていなかったとしたら、食の天体にもぐりこめなかっただろう。
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「地球の反対側からうちの料理を食べにきてくれる---そんな人、ハタしかいないよ」
「ここに座っていると、私は幸せなんだ」
「幸せって不思議なものだね。風がふっと吹いた感じ。すぐ消える」
「美味しいもの食べて、食べる時間なんて、人生の長さに比べれば、はかないけれど」
「そう。あっという間」
「だけど、その思い出は、高い山に降る雪みたいに、万年雪になって、いつまでも心に残っていく」
「それはね、セニョール・ハタが生きていることを愉しんでいるからだよ。こういう商売をしているとね、愉しんでいる人なのか、そうでない人なのか、すぐ分かるんだよ。セニョールが初めてきたとき、あ、この人と、ピンときたんだ。いろんなことを、自分の手で成し遂げたのだろうとね」
「いい人生だったよ」
「そうだろうとも。いいレストランというのは、そういう人たちが翼を休め、フォークやスプーンを動かす度に、そういう思い出を一つずつたどれる場所だと思うんだよ」
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ここで、初めての経験をした。いつもの私の食事量から比べれば、はるかに多いものを詰めこんでいた。しかし、入っていくし、自分自身が変化していくことが分かった。飽食によって味を感じる細胞が押し広げられているかんじだった。グルメとはこんなものなのか、きっとそうだと私は、背筋を正した。つまみ食いをするのではなく、一つのものをたらふく食べる。その先にあるものが、グルメ!
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オヒョウは釣れた。人の力では船上に引き揚げられないので、目と目の間を狙ってピストルで撃ち殺した。この刺し身がえもいわれぬ美味。その美味しさはフグに匹敵した。
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タラは貪欲な魚である。口も胃も大きく、海底でうごめくものなら何でも食べる。カニやエビの類、クモヤヒトデや貝、とりあえず胃の中にほうりこんでしまう。だから、陸揚げされたものは、腹が異様に膨らんでいる。鱈腹食べるという表現は、もちろんここから生まれたものだ。
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ああ、フカ。つまりサメについては、語りたいことが山のようにある。世界中、いろんな所で、巨大なサメに囲まれた。あのガラパゴスのダーウィン島では、体長が十五メートルぐらいの、シュモクザメのただ中で泳いだ。
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パスタはイタリア。そのイメージは世界中に浸透している。でも、パスタの歴史は浅く、モーツァルトがイタリアを旅行した頃は、港の屋台で売られていて、イタリア人はそれを手で食べていたそうである。
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「日本のラーメン?」とリン君は笑った。「中国語の拉ですね。練った粉を手で伸ばします。だから拉麺」

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