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『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 3: 徳川家康と森孫右衛門

日本橋魚市塲沿革紀要は、日本橋魚市場の創始者として森孫右衛門の伝承を最初に伝えています。孫右衛門は摂津佃村で徳川家康に謁してその処遇を得ていたようです。その後、家康が上洛から関ヶ原、大阪両陣において徳川側に立ち、いくつかの功を積んだとされています。

ようやくになりますが、日本橋魚市塲沿革紀要の冒頭を読んでみましょう。

日本橋魚市塲沿革紀要 冒頭

日本橋組魚問屋ノ濫觴ノ大畧ヲ擧クレハ其昔天正十八年徳川氏開國ノ際摂州西成郡佃村名主森孫右衛門始メテ佃大和田兩村ノ漁夫三十餘名ヲ卒へテ此地ニ來リ各所ノ河海ニ於テ漁業ヲ營ナマン事ヲ請シニ許サレ…

「日本橋組魚問屋の濫觴(起源のこと)の大略をあげれば、それは昔の天正十八年、徳川家康が開国したときのことだった。摂州西成郡佃村の名主であった森孫右衛門が、佃・大和田両村の漁夫三十数人を従えてこの地(江戸)にきた。家康は孫右衛門らに各所の川や海における漁業を営むことを許可した」

孫右衛門がいた摂州西成郡佃村は、現代でいう西淀川区佃の1〜7丁目に当たります。中洲の部分にあたりますね。地図で見るとわかりますが、西隣は兵庫県尼崎市です。

後世の研究でこの家康と孫右衛門の出合いは史実とは異なる(「魚河岸百年」より。後のPartで述べますが、単なる漁師/魚屋ではなく、偵察・諜報なども行う軍事色の強い立場だったと考えられます)とされていますが、日本橋魚市場の誕生は家康と深い縁があるといえるでしょう。

また、天正十八年から徳川様とのご縁により続く伝統ある商売であるという説明が江戸時代から続けられていたようですが、こちらも時代背景を考証していくと矛盾が出てくるようです(詳しく述べると非常に長いので岡本・木戸, 1985を参照のこと)。羽原又吉「日本漁業経済史」で取り上げられる「佃島文書」では、奉行所が天正の頃より御用を勤めているという証拠があるのかと詰問されたそうな。江戸時代にもそれを言われるくらい、日本橋魚河岸の誇りともいうべき由来として語り継がれてきたのでしょうね。

次回、日本橋魚市場が誕生します。


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