見出し画像

『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 9: 乱立する魚市場

前回は、日本橋に魚問屋が増えて更に市場が設立されていくとともに、本船町組、本小田原組、本船町横店組、安針町組からなる四組問屋が生まれた部分を読みました。そこに続く部分からは、さらに魚市場が乱立されていったことが読み取れるようになっています。

日本橋魚市塲沿革紀要

一 寛文五乙巳本船町横店魚問屋ハ更ニ組合ヲ立テ允許ヲ得テ魚市場ヲ開設セリ当時會所ヲ設立シ以テ組合公私ノ事ヲ辯理シタリ

一 延寶二甲寅年新ニ本木材町ニ魚市場ヲ開設シ(之レヲ新肴場ト云日本橋問屋ノ内ヨリ分離シ同所ヘ開設セシト)爾後本小田原町新場等ニテ(上十日ハ新場ニテ納ム下廿日ハ本小田原町ニテ納ム)輪当幕府ノ納魚ヲ司トレリ

一 天和二癸亥年安針町魚問屋ハ更ニ組合ヲ別チ允許ヲ得テ魚市場ヲ設立セリ

寛文五年(1665年)、本船町横店魚問屋はさらに組合を設立し幕府の許可を得て魚市場を開いた。魚會所を立てて組合における公私に関することを判別して適切に処理した。

延寶二年(1674年)、新たに本材木町に魚市場が開かれた(これを新魚場とよび、日本橋の問屋から分離してできた)。そののち本小田原町新場などで順番に幕府へ魚を納める仕事を務めた(一月のうち最初の十日は新市場が、後の二十日を本小田原町が担った)。

天和二年(1682年)、安針町の魚問屋は更に組合を分けて、幕府の許可を得て魚市場を設立した。

魚商人が増えれば諸々のゴタゴタも増え、調停する機関ができたり人や組織が分離していくというのはどこかでみたような光景かもしれません。

新しく出てきた地名「本材木町」は、現在の日本橋一丁目〜三丁目あたりにありました。この地にできた市場が本小田原町と交代で幕府に魚を納めることとなりました。幕府に魚を納めるのは大変な名誉ですが、売価が非常に低く抑えられるということもあり、実利の面では負担になっていました。一月を二つに分担して納魚するようになったのも、このような背景があります。

ちなみに明治時代になると、本材木町にあった魚会所の跡地には、東京郵便電信局が開設されます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?