『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 21: 天保の飢饉・大不漁時の魚屋(貫三事件)

一 天保五甲午年十二月町奉行筒井伊賀守殿ヨリ七組肴問屋ヘ幕府納肴助成トシテ金三千両拝借被仰付該金各問屋ヘ貸附シ本船町河岸ヘ新ニ會所ヲ設ケ納肴ヲ取扱ヒ且貸附金及納肴代金ノ償銭等取立セリ已后組合ニ種々葛藤ヲ生シ紛議中天保十二丑年御改革被仲出候ニ際シ終ニ閉鎖ス(后之ヲ貫三事件ト云フ)

日本橋魚市場沿革紀要

天保五年(1834年)十二月、町奉行筒井伊賀守殿から七組魚問屋へ幕府の助成金として金三千両が出された。この金をもとに各問屋へと貸付を行い、新しく会所を設けて幕府への納魚を行うとともに貸付金や納魚の代金等の取立を行った。後に組合に諸々の葛藤が生じて、紛議の中天保五年(1841年)天保の改革に伴い閉鎖された(後にこれを貫三事件と呼んだ)

文政三年(1820年)から始まった飢饉は長期化し、そこから十年後の天保に入ってさらに深刻化しました。このいわゆる天保の大飢饉は全国に渡り餓死者をうみ、米価の高騰・社会不安を引き起こしました。

この時、各浜でも不良が続きます。入荷も少なくなり、幕府に納める魚にも困るようになりました。このような苦しい状況の中、七組問屋らが町奉行筒井伊賀守に助成金を願い出ます。

さて問屋側も幕府への納魚に手を抜けません。新しく会所という拠点を設けて対応を進めました。この会所でとられた納魚負担を問屋間で軽減するためのルールが「貫三積立」というものだったのですが、これが問屋ごとに負担が違うものでもめにもめます。その結果、最終的にはこの制度も廃止されてしまうのでした(ここから後に貫三事件と呼ばれます)。



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