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『日本橋魚市塲沿革紀要』を原典で読む Part 17: 納魚請負制、その後

前回、幕府へ魚を納める務めが特定の魚問屋による直接納入から請負制に変わったことに触れました。今回はその後の展開に続きます。
(サムネは安政六年(1859)・須原屋版・分間江戸大絵図部分・日本橋周辺です)

日本橋魚市場沿革紀要

按するに直納請負にて稍得失を異にせり直納は日々膳所の注文に應し従前の定価を以て若干の魚類を納むるなり請負も納方相類すれとも唯膳所に於て下料理と称す請負人自ら料理するを以て自然徒費を省けると云ふ
一 安永七戌戌年十二月本船町組より納魚御助成として町奉行牧野大隅守殿へ金壹萬両拝借の儀を請願し之れを許可せられたり

直納と請負では、その利得と損失がやや異なっている。直納は日々幕府の膳所の注文に応じて従来の定価に基づいて魚を納めていた。請負制でも納め方は似たようなものだが、膳所において「下料理」という、請負人が自分で料理することで無駄な費用が省けたという。
安永七年(1770年)十二月、本船町組から納魚の助成金として、町奉行牧野大隅守殿に対して金一万両を拝借する申請を出し、これは許可された。

前半では、直納から、請負制に変わったときの相違点について触れています。幕府の膳所に入って、魚に手を入れるところまでやっていたのでしょうか。

また、安永七年(1770年)十二月、本船町組は納魚の助成金として金一万両を借り受けています。これには少し背景があって、まず以前助成として借り受けていた土地は幕府に返されています。

もともと納魚が魚市場に重い経済的負担をかけるから助成しようとしたものであって、これが請負制になったことで土地を貸しておく必要がないと判断されたものと思われます。このときは本小田原組になされたのに対して、今回は本船町組です。納魚負担の主力が本船町組に移ったと考えられます(「日本橋魚市場の歴史」)。

次回、魚問屋役所が登場します。

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