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南北朝時代と文観の抵抗

文観はダキニの法によって後醍醐天皇から信頼を得ました。

しかし、建武の中興もむなしく、後醍醐天皇は足利尊氏に敗れてしまいます。
南北朝時代になった後、文観は後醍醐天皇と共に吉野で過ごしました。

元々山林修行をしていたこともあり、修験者ネットワークを駆使して楠木正成などの南朝側の武将と連携を進めていくとともに、密教による尊氏調伏を試みました。

オン ダキニバギャチキャネイエソワカ

という呪文が吉野の山を駆け巡りました。
実際に、足利尊氏と、高師直足利直義の仲違いなど、幕府側にも不穏な流れが起こるようになりました。

後醍醐天皇は志半ばで亡くなりますが、文観は後村上天皇に仕え、大日如来と文殊菩薩の力を用いて吉野の再興を目指したものの、1357年に金剛寺で80歳でその生涯を終えました。

こうしてその一生を見るとストイックに修行を重ね、後醍醐天皇に忠義を尽くした僧であることが分かります。
それなのに真言立川流と結び付けられてしまった背景は、やはり性的な要素のあるダキニの法を用いてためでしょう。

もっとも南朝への忠義を貫いた楠木正成も悪党などと呼ばれ、貶められていることからも何か歴史を隠そうとしている気もしますしね。
背景も踏まえて学んでいくことが大切だということですから、一緒に頑張りましょう。


これからも良い記事を書いていきます。