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吉田神道の変化

吉田神道は卜部氏というカメの甲羅を使う亀卜を行っていた家系が起こしました。

卜部氏は、占いやお祓いのできる方々ですから、陰陽道とも親和性があり、一緒に祭りを行うことも多かった為、徐々に技術が混ざっていきました。

そして、足利義満の時代に大きな変化が起こりました。
それまでのお坊さんや神主を差し置いて、陰陽道の大家である土御門家を従二位に引き上げたのです。

そんな陰陽道が権力に支持される時代に吉田兼倶さまが吉田神道を作るのです。

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正式には唯一宗源神道と言い、陰陽道や密教の要素を多く取り入れました。

時代の後押しを受けて、江戸時代まで吉田家は神道を牛耳ることとなりました。
しかし、名家あるあるで、1656年に跡取り問題が起こります。
跡取りはいたのですが、幼かったのです。

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そこで、一時的に吉田家を継いだのが吉川惟足でした。

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吉田家の跡取りが成長したのち、惟足は独立し、新たに始めたのが吉川神道です。
これは、吉田神道がベースではあるのですが、儒教の要素を多く取り入れました。

惟足の弟子に禅宗出身の山崎闇斎がいました。

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闇斎は吉川神道にさらに儒教要素を強くした垂加神道を作りました。
ちなみに、五行祭などでお馴染みの橘家神道を作った玉木正英は闇斎の弟子だった人物です。

元々の流れが吉田神道だったこともありますが、垂加神道がいかに陰陽道に近かったかというのは、元々の経緯を考えれば明らかでした。

神道を追い抜く勢いで隆盛した陰陽道が吉田神道をベースとした神道から、新たな神道を作られていくというのは因果なことでした。

明治になって神仏分離政策が始まりましたが、陰陽道を取り入れた神道が沢山あったことで生き残ることができたのは歴史の不可思議さと言えますね。

神道を追い抜くかと思った陰陽道が陰陽道をベースとした神道となり歴史の荒波を乗り越えてきました。
もはや奇跡的な系譜とも言えますが、科学主義に押されせっかく生き残ってきた見えない力が失われようとしています。
まだ残っているうちに見えない世界について学んでいきたいと思う方はぜひ一緒に頑張りましょう。



これからも良い記事を書いていきます。