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陰陽論を理解していた信長の戦略

桶狭間に勝利し、美濃を滅ぼし、将軍を擁立して京都入りを果たした信長。
しかし、これを契機として、周囲の状況は一変していきます。
信長を引き下ろそうとしてくるようになったのです。

信長は朝倉義景を討つことにしました。
同盟を結んでいた徳川家康と共に福井に向けて進撃したのです。

しかし、妹の夫であった浅井長政が裏切り信長の背後を突くという情報が入ったのでした。
義理の弟ですから、裏切ったということを信長が信じられるはずはありません。
しかし、長政の進撃により愕然とした信長は秀吉と家康を殿軍を任せて、逃げ帰ってしまいました。

現代人は無責任ということを言うのでしょうが、外野の無責任なやじにすぎません。
大将さえ生きていれば、後で出直すことはできますが、戦いに勝てても大将が死ねば国は滅亡に向かいます。

条件が変われば答えも変わると言うことです。
長政が味方としていた状態から敵に変わるのですから、陰陽である開から閉に変わったのです。

国を滅亡させないことを第一条件に掲げ、散々に敗れ、京都民からの笑いものになっても岐阜に駆け戻ったのです。

条件が変わっても答えを変える決断のできない人は多いのですが、信長の陰陽の転換の素早さは見事なものでした。
わずかにも判断が遅れていれば、信長が覇権を取るという歴史は無かったことでしょう。

陰陽論というのは単なる哲学というわけではありません。
このように実践的なのです。
見えない世界のことは実践的に役立つことですから興味のある人はぜひ一緒に頑張りましょう。


これからも良い記事を書いていきます。