自分のハンディキャップに感謝できるようになったら最強だ

ここでいうハンディキャップとは、単に身体障害のことだけではありません。他の人と比較して劣っていると本人が思っていることを想定しています。

僕の場合は、メタ不自由であることを自分でハンディキャップだと感じています。目が不自由であることで、日常生活のいろんな場面で困難を感じたり、辛いと感じたりしています。

家の中でも外でも、何かにぶつかって痛かったり、怪我をしたりすると、目が見えないせいでこんな目に遭うんだという気持ちになります。また、自分が身体障害者であることが、すごく人よりも劣っているように感じたり、すごく恥ずかしく感じたりしています。

一方で、目が不自由だからこそ経験できていることは本当にたくさんあります。ブラインドサッカーというものを経験したり、それによってたくさんの人に出会ったことは僕の人生の中でとても大きいです。また、日々いろんな方に自然に声をかけられて、移動を手引きしてもらったり、電車で席を譲ってもらったり、人の温もりややさしさを身をもって感じます。

そして、目が見えないことを切り口にしていろいろと気付いたり感じたりすることもあり、それは目が見えていたら得られなかったことです。

でも、こうして書いていて自分がどことなく腑に落ちないのが、頭で書いているという点です。なんかこう、メリット・デメリットを羅列しているような感覚です。

目が見えなくて本当に良かったとか、僕の人生はこれで良かったんだとか、そんな風にはまだまだ思えない。

まだまだ目が見えないことに憤りと悲しみがたくさんあって、感謝というところまでは全然到達していません。

自分のハンディキャップを心から感謝することができたら最強だと思うのですが、いつになったらそうなれるのか。死ぬ間際まで時間がかかるよりかは、今から少しでもそんな風に感じられる部分があったら幸せだなと思います。

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